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環境目次 店主の一口一言

        庵主のくり言

店主の一口一言を引き継ぎ 「庵主のくり言」です。

参考論文-1 「熊野神社の杜とわたし」

参考論文-2 「麻をたずねて」

2019年

20.01.27

昨年99日、房総半島を襲った台風15号は、千葉県全域に甚大な被害を被った。特に風速40mを超える強風が送電線をも押し倒し、南房総方面では家屋の損壊はもちろん、処によっては2週間以上の停電と断水で、暑さも加わり、健康被害にまで及んだ。

われわれ東総地区では、杉林の倒伏があちこちに見られた。数日後のテレビの報道でその杉のなぎ倒された様子がテレビに映し出され、学識者と思しき人が解説を加え「木々が倒壊した原因は、山の手入れを怠ったため、木の内部に虫がはいり、中心部がボロボロになっていて、今回の風でもろくも倒れてしまったのである」と説明していた。その数日後、出会った人数人から今回台風により杉林の木が倒れたのは木の中心部が虫食いのため空洞になってしまっていたためである。と会話の中で皆さん異口同音に語るのを聞いて私は驚いたのである。

ひとつの普段知らなかった情報についてたまたま報道で聞きかじった知識が瞬く間に世の中の常識にまかり通る現象を恐ろしいと私は感じたのである。

かつて私は「大都会に作られた自然の森明治神宮の森」・・・本多静六博士の理論を正論と思っていた。博士は神宮の森つくりの際、伊勢神宮のような杉、ヒノキの単純林を作ってはいけない、それは横風にもろいからである。照葉広葉樹との複合林が災害にも強く循環の森として生成発展するという理論である。当時の首相であった大隈重信の主張をも退け、玩として譲らなかった氏の見識である。

事実、私の友人の山武杉の山持ちM氏も模範的な手入れの行き届いた植栽後約230年の杉林を管理していたにも拘わらず風の通り道では半分以上が折れ曲がり商品にならなくなったと嘆いていた。

杉の木の倒れたのは管理不足のための芯の空洞化もあるだろうが実際は人口植林の杉の単純林であったためなのである。

今日天災や事件、政治に関する不祥事などについて報道機関が一般市民にマイクを向け意見を聞くことは多い。マイクを向けられた市民は聞きかじりの知識で評論家ごとき生半可わかったようなことを言う。そしてその放送局は取材した番組を編集して、「国民のほとんどはそのように考えています」と印象付け世論 が構成されてゆく。番組編集者の意図で世の中の価値基準が作られてゆくことの怖さを思うのである。

20世紀が大衆の時代と言えば、21世紀はインターネット・情報過多の時代ともいえる。ネット配信によりわれわれは安易に知識、情報を得ることはできるが、深く物事の本質を見極める ことをせず、独自の価値を創造してゆくタフな頭脳を失ってしまった。貴族、エリートの統治の時代から、民主主義、国民主権の時代へと変化し、次に権利ばかりを主張して誰も責任を負わない時代になりつつある。

地球温暖化の問題も、じわじわと人類滅亡へと進みつつあり日本の国家財政の赤字も膨らむばかりだ。

しかし、総論賛成、各論反対、みな自分の生活が優先、最後の責任には目をつぶっている。

今回の山武杉の倒壊をみて、世論という名の短絡思考、議論ばかり重ねて誰も本質に迫ろうとしない、その場をただ漫然とやり過ごす無責任体質をまざまざと見せつけられたと思う。

これも年寄りの繰り言か・・・?。

 

20.01.12

新年明けましておめでとうございます。いつもこの繰り言をご愛読くださりありがとうございます。

今年一番に、昨年4月より取り組んでいた熊野神社の石碑文の解読、この難解な作業、諸氏の協力を得てやっと完成しました。紹介します。

令和元年五月 熊野神社本殿改修工事を二八〇年ぶりに行い無事完工した。藤城吉董宮司、伊藤正芳総代長、木原孝明社友会会長らを先頭に氏子が一体となって携わった。藤城宮司にとっても集大成ともいうべき事業であった。同年九月、台風十五号の強風により大鳥居(三十年改修設置)が倒壊した。鳥居正面入り口に茨城県山本石材店御影石寄贈による熊野神社銘石の建設中ばの時であった。この時、神社正面東に据えられている碑文石に注目し、この際この碑文を解読しようと思い立った。まず拓本をとり表具し、次いで文字の解読、文字の欠けた部分もあったが諸氏の協力を得てかろうじて可能に。次いで古文書に詳しい方にお願いし、これを読み下し文にして仕上げた。約二百年余前の構築物とあって意味が今一つ明快でない部分もあるがほぼ全文解読した。これを後世に継承し、宮川熊野神社の御神徳の発揚を祈念するものである。 

碑文解読協力者 四街道市 吉川綾子様  横芝光町木戸 乾 浩様   文書作成    熊野神社氏子  藤城吉雄

令和二年二月節分の日 拓本額を添えて 熊野神社 大神様に捧げ奉る   横芝光町宮川2501-5 藤城吉雄

宮川之碑

惟熊埜之神其實 伊邪那美尊配祀

伊弉諾尊事解男王子 貞観中詔兆下総州 

匝瑳郡為熊埜神座 其南有川東流通海   

曰宮川其祠後祀咲弥姫命 副為爾来千餘歳

為十有八村之社歳時祭祀 崇敬日篤其北則

田圃接壌土人耕稼于 斯西則驛店鱗次行旅

然繹其東進接矢指浦 賈舶漁舟前唱後應

蓋海濱之富漁網之利 殆申近別仰霊護冥助

可不欽仰哉因立石以銘

吁我神霊 発祥千古

蘋蘩薀藻 威徳是普

漁網之利 耒耜之祐

冥二有助 永護楽土

東都学士成島司

  (裏 面)

文化十一年歳次甲戌

奉祠 藤代吉ェ撰拝書

長塚郷 吉田吉太夫常政大

 

これを読み下し文に

宮川之碑(みやがわのひ)

(これ) 熊埜之神(くまののかみ) 其實(そのじつ) 伊邪那美尊(いざなみのみこと)(まつ)(はい)ものなり

伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男王子(ことさかおのおうじ) 貞観中(じょうかんちゅう)(みことのり)(くだ)されて総州(ふさのくに)(きざ)

匝瑳郡(そうさのこおり)熊埜神(くまののかみ)として()すなり 其南(そのみなみ)(かわ)(あり)(ひがし)(なが)(うみ)(つう)

宮川(みやがわ)其祠(そのほこら)(のち)咲弥姫命(さくやひめのみこと)(まつ)ると(いわ)く 爾来(じらい) 千餘歳(せんよさい)()えて()

十有八村(じゅうゆうはちそん)(やしろ)として歳時(さいじ)祭祀(さいし)() 崇敬(あがめうやまうこと)()(あつ)く ()北則(きたがわ)

田圃(たんぼ) 壌土(じょうど) (ひと)(たがや)して()とする() 斯西則(このにしがわ)には(えき)(みせ)(うろこ)のように(なら)旅行(たびゆ)

(しか)るに其東(そのひがし)(すす)んで(たず)ぬれば矢指浦(やさしがうら)(せっ) 賈舶(あきないぶね)漁舟(りょうのふね)(まえ)(とな)(うしろ)(おう)

(けだ) 海濱(かいひん)()(とみ) 漁網(ぎょもう)()() (ほとん)(ちか)くに(べっ)して霊護(れいご)(みょう)(たす)けを(あお)ぐと(もう)

欽仰(きんぎょう)()から() (より)(いし)()(もっ)(めい)とす

(ああ) (われ)神霊(しんれい) 千古(せんこ)(しょう)(はっ)

蘋蘩薀藻(ひんぱんうんそう) 威徳(いとく)(これ)(あまね)

漁網(ぎょもう)()() 耒耜(らいし)()(ゆう)

(くらがり)()(たす)(あり) (なが)楽土(らくど)(まも)

東都(とうぶ)(まことの)学士(がくし) 成島司直(なるしまもとなお) (しる)

文化(ぶんか)十一年(とし) (つい)甲戌(きのえいぬ) 春三月(はるさんがつ)

(ほこら)(たてまつ) 藤代吉ェ(ふじしろよしひろ) (しょ)(はい)して(えら)

長塚郷(ながつかのさと) 吉田吉太夫(よしだきちたゆう)常政(つねまさ) (うし)

 

19.12.31

今年1年を振り返ると、まず平成31年に終止符をうち5月1日より令和の新しい年号がスタートしたこと、台風15号、19号と千葉県房総半島を縦断する送電線の鉄柱が倒れるほどの大風で被害甚大、ところによっては1か月近く停電した災害があった。私自身に関しては、昨年年末突然手のひらの激痛に襲われ、爪の付け根が黒く死んだ状態、そののち、目、脇の下、口内炎と、粘膜が次々に侵され、手の甲の皮がむけてケロイド状に、急きょ旭中央病院に入院して今年の正月を過ごした。原因はおそらく3年前の食道ガンの治療の際、抗がん剤、放射線照射などによる抵抗力が弱くなっていてウィルスまたは細菌による皮膚感染症であったと思われる。後で食道ガンの手術、治療に携わってくれた梶山先生から私のガンの病状がステージ4のAだったと聞かされ、間一髪で命拾いしたのだったと知った。当時はガンに侵された部位を切除すれば簡単に解決する病気くらいに思っていたのだからノー天気と言われても致し方なかった。幸い、3年経過した現在、転移再発の様子は見られないが油断はできない。2月中旬には皮膚病が治ったのだが、月に1〜2回、小便器排泄時、便器内が真っ赤な血でいっぱいになることがあった。同じく旭中央病院、泌尿器科で検査を受けると、尿管と腎臓内に結石ありという。1年前に衝撃波による簡単な手術で石を破砕するのを行ったがうまくゆかず、そもまま放置していた。今回、手術で結石3個を取りましょうというK医師のすすめで4月1日、部分麻酔で手術を行った。まず尿管内の石を取り除き、次に腎臓内の石を取り除く予定だったが腎盂内にレントゲンによると血痕か悪性の腫瘍かの曇りが見られるので、とりあえず、石は取らず、細胞の検体を取り出し、尿管にスレントを挿入して手術を終えた。1か月後、K医師より検体結果異常なしということで一安心していたが、なぜかその1か月後、家族とともに呼び出しがあり、やっぱり腎盂ガンでした、左腎臓、尿管、膀胱の一部を全摘出手術が必須だという。「セカンドオピニオンを求めますか?」と先生から言われたので「ハイ」と答え、私は食道ガンの手術を行った順天堂泌尿器科で手術を行うことに決めた。手術は順天堂の医師団を中心に東京共済病院で6月28日に実施した。4月1日から約3か月間、尿管にステントがはいった状態(腎盂ガンによる尿管がふさがるのを防ぐため)は15分おきの尿意、しかも排尿時の血尿と激痛、しかも尿漏れの3重苦の状態が続いた。尿漏れパンツをはき、痛み止めを服用し、出先では絶えずトイレを探して、駆け込む地獄のような状態が続いた。しかしこうした病気とに闘いは命あればこそと解釈して自分を励ました。腎臓摘出手術後、痛みが残ったのと不眠に悩まされたが、これも飲み薬でしのぎ、術後3か月ほどでほぼ元の状態まで回復した。

その間、1月より、完全に会社経営の現場から退き、チラシに掲載していた一口一言を一冊の本にして500部刊行、また地元熊野神社本殿改修工事の完工を記念しての熊野三山旅行の幹事を仰せつかっていた。9月28〜30日の2泊3日の旅行の幹事役として参加者の把握と日程の最終決定を控えていた。体力の回復を待って参加者29名、阪急交通社との団体専用契約ができて、伊勢神宮令和両参り、熊野本宮大社、熊野速玉大社での正式参拝、熊野那智大社参拝、最後に高野山奥の院参拝と内容の濃い旅行を完遂することができた。

これら一連の病気との戦い、会社譲渡の判断と決定、経営トップの座を去ってからの日常生活のあり方、毎日の健康管理、すべてを振りかえるとき、人間にとって運命とその経過はほとんど「自分のこころの有りようによって決定する」としみじみ思う。絶えず自分に降りかかる災難や幸福はすべてはそのひとに課せられれた宿命でありそれをどう乗り切り、どう解釈するかはすべて自分自身の問題であり責任である。

私にとって大学2年で中退するのを決定したとき、千葉おゆみ野に出店してわずか2年で撤退を決めたとき。そして30年営んできた株式会社村市を譲渡すると決めたとき、これらの判断はすべて清水の舞台から飛び降りるのを決定したときである、ヒトは勢いを持って前にすすむことはむしろたやすい、退くタイモングと決定は最終的に孤独な判断である。前大戦での日本軍は明治のロシアとの日本海海戦を皮切りに世界の舞台に進んだが、身の程知らずで退く勇気とタイミングを失い、あまたの戦死者の犠牲を強いた。

今回の株式譲渡では会社の名を残し、従業員の雇用を確保し、問屋お客様との良好な関係を保持して存続継承するのを目的とした。社員のほとんどが継続して会社のために励んで良い業績を維持してくれているのをありがたいと思う。命をかけ、会社と一身同体、寝ても覚めても会社をどうかじ取りするかに集中した人生であった。譲渡したからハイさよなら・・と言いたいが、本音で言うと1月に退いてからも社会の情勢、他の店舗をみてああしたらよい、こういうやり方はどうか?とか言いたいことは日々わき起こる。しかし・・・経営権を失ったものが口出ししたらどういうことになるかは火をみるより明らかである。前社長、前相談役の発言、干渉は絶対にやってはいけないタブーである。

まあ、元専務の妻がお店で買い物をして、その商品を見て現役時代と比較してブレていなかれば安心し。易きについてグレードが落ちたな・・と思うとちょっとイラッともするが妻いわく、譲渡したのだからいい加減にしなさい。と注意されてまあそうだねと観念する。

戦前戦後の人の変質ぶりを作家橋田須賀子は「おしん」の小説で語っているが、国のためにと昨日まで言っていたのが終戦と同時に軍国主義で国に騙されて戦地に赴いたと手のひらをかえした教師の姿を描いている。何ともさみしい生き方だと思うが、株式譲渡でもすべての社員が創業社長に敬意を表するわけでもなく、やはり人の子だから経営者が変わればそちらに目を向けるのはごく自然な行為だと思う。ただ以前にも言ったことがあるがリンカーンが言った言葉「世の中に卑しい仕事、職業というものはない、ただ卑しいひとがいるだけだ。」という言葉があるように人間にとって節操というのは大事な部分だとわたしは思う。大きな価値の変革のとき、そのひとの本心が見えてくる。

今年も一年ありがとうございました。この欄を愛読くださるかたに感謝。どうぞよいお年をお迎え下さいませ。

19.11.27

今年の大相撲九州場所は横綱白鵬が43回目の優勝でこの1年を締めくくった。白鵬自身が2020年の東京オリンピックまでは現役を維持したいと語っていたが現実それは実現するのが見えてきた。そして解説北の富士が語るように優勝50回も不可能ではないという説も現実あり得るだろう。今回の優勝後、横綱審議会全員が白鵬の相撲で立ち合いのかちあげ、張り手が横綱としてよろしからぬ技だからやめるよう審判部に指導してくれと要望が出たという。解説者の舞の海秀平も横綱としてやってはいけない手であると批判した。しかし私はそうは思わない。相撲の四十八手を含め、ルール上公認された一手であり、力量の低いものがこの技を使うと、立ち合い両わきがあいて相手にもろ差しを許すことにもなる。張り手、かち上げを回避してどう相手と戦って勝つかを考えればよいので、日本の国技である相撲界をモンゴル勢に占められているのは日本人の力士の力が至らないからでもある。現象だけをとらえて、本質を見失っているとしか言いようがない。そもそも相撲はスポーツの一種であるなら、ルールをもっと明快にすべきである。立ち合いで両手をつかないと行司が待ったをかけるが、どこまで徹底しているのか、大事な相撲の大一番であまりに行司が手をつくのを厳格にして何度も仕切り直しをさせ、力士がしらけて力のはいらない相撲をみていると、何か腑に落ちない。今年一年、横綱、大関の休場が多く優勝者が入れ替わり、最多勝利者が小結朝乃山というのだから、どの相撲も押してははたく、数秒の三流役者ばかり、やがて観客から見放される危機感は相撲界にないのが不思議である。今満員御礼で一見人気が維持されているように見えるが、モンゴルから日本に帰化し、日本の文化を理解し溶け込もうとする、また横綱としての地位を保つため、たゆまぬ基礎運動を怠らず、相手を研究し他人からのアドバイスを素直に聞き入れる白鵬が相撲界では歴史上まれにみる優れた力士であることを認めてあげるべきだと私は思う。

19.10.24

プロ野球、日本シリーズ巨人対ソフトバンク戦が行われ、4連勝の圧倒的強さでソフトバンクが勝利を収めた。選手層の厚さの相違が勝敗の分け目でもあったが、ジャイアンツの守備と攻撃に凡ミスがあり、そこに付け込まれて得点を許したのが試合の流れを決定付けた。巨人の守備のエラーや、走塁の判断ミスは高校野球でもありえないようなレベルの低いミスであったのが巨人ファンとしては情なかった。試合中の観客はマナーがよいのはわからないではないが、観客は高いお金をはらって球場まで足を運んでいるのである。プロとして納得できないプレーならば、観客はもっと明確にブーイングを主張すべきである。

優勝を決定づける4戦目にはネット裏にソフトバンク野球会長 王貞治氏、ソフトバンク社長である孫正義氏が観戦に訪れ、優勝が決まった瞬間、グランドに出て選手とともに優勝の喜びを分かち合う光景がとてもよい印象を受けた。アナウンサーの解説で、王さんが監督時代に築いた伝統が工藤監督に引き継がれ、それが見事に花開いたという。

王さんが伝えたかった精神とは「選手にとってひと試合は1年間の125分の1である。しかし、観客にとっては一生に一度の貴重な1試合だけの観戦である。1試合1試合を決しておろそかにしてはいけない大事な1試合と思って戦え!」というのである。たまに、監督や解説者が選手がミスしたり、ピッチャーがこてんぱに打たれて試合を台無しにするゲームを解説して、次のステップへの過程ですねなどと甘やかした発言をすることがあってびっくりすることがある。成長への訓練は2軍の試合でおこなうべきで、プロの試合を堪能する期待をもって観客は球場に足を運ぶのである。お客様からお金をいただくことの原点、責任を問われているのだといつも緊張感をもって臨めと王さんは言ってるのだと思う。野球界の人気を背負ってきた長嶋と王のふたり、長嶋選手は巨人の本流に残り、王さんはパリーグ、ソフトバンクに移って野球精神を伝えようとしている。微差が10年、20年ののち大きな差となる。鍵山さんの言葉を実証した日本シリーズであった。

19.10.08

地元の産土様 熊野神社の本殿を280年ぶりに改修工事を行い、その完成祝いに和歌山熊野三山お礼参りのツアーを計画、9/27日〜29日の2泊3日の旅行を行った。この旅行の幹事を仰せつかり、半年前から旅行社の選定、旅程その他の交渉、参加者の募集と一連の作業を すすめてきた。予算の関係で旅行者の一般ツアーからの内容の充実したものを選び、団体受付担当者と買取によるわれわれのグループ専用のバス、宴会場の手配ですすめた。宮司、総代長、社友会会長以下総勢29名、女性6名を含め、名古屋まで新幹線、現地では大阪のガイド付観光バス、1日目は伊勢神宮、外宮内宮の両参り、おかげ横丁赤福本店でかき氷を食べ (9/30まで限定販売)、二見ケ浦へ夜の宿は的矢湾に面した伊勢志摩ホテル泊、2日目は熊野速玉大社正式参拝、上野宮司の案内で神宝館を拝観、予想以上の時間を要したので瀞峡、ウォータージェットは中止、 瀞峡熊野川レストランで昼食後、熊野古道大門坂へ、やや小雨降るがそのまま那智の滝へ、きつい階段430段を登り詰め、熊野那智大社、青岸渡寺に参拝後下山し、バスに戻り勝浦温泉「ホテル浦島」へ舟でわたる。忘帰洞、玄武洞の硫黄泉で旅の疲れを癒す。3日目、熊野本宮大社正式参拝、記念撮影、日本一広い村十津川を通り谷瀬のつり橋で休憩、山道を走って高野山奥の院へ。我が家も真言宗智山派、南無大師遍照金剛のお題目を唱える弘法大師さんの末寺である世貴山の檀家である。帰路は新大阪から新幹線に乗り、横芝光町役場前に帰着し たのはほぼ予定通り、深夜の24時15分であった。全員事故もなく初期の目的も達成し、天候もまずまず、幹事の口からいうのもおこがましいが大成功だったと思う。

熊野古道を経て熊野詣でしたかつての平安、鎌倉人は強い信仰心を持っていたのであろう。田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されて いる。

京の都から賀茂川を下って大阪湾に出て泉州、海南市から向かうコースもある。熊野九十九王子の一番札所に海南市和歌の浦に藤白神社がある。全国の鈴木姓の総本家がここにある。私の姓は藤城(フジシロ)だが、先祖はおそらく和歌山、藤白神社のあたりかと思われる。 熊野神社と藤城の祖先とのご縁、この脈絡の中に今の自分の存在がある・・・。

宮川熊野神社の氏子みなさんとともに、本家筋に神社の繁栄、各家庭の健康と弥栄を祈念し、報告できたこと、旅を終えて1週間を経た今、しみじみよかったなと心底思う次第である。

19.09.24

9月9日未明、台風15号が通過した。私は前夜、この1か月服用している睡眠薬を午後10時にのみいつも通り熟睡、午前5時に目覚めた。まだかなりの雨と風が吹き荒れていたが、あとで妻から聞いたが家が揺れるほどの強風であったという。明るくなるのを待って雨具、長靴を身に着け家の周囲を見回ると木の枝と葉が道路いっぱいに落ちているのはもちろん、我が家の本部事務所わきの駐車場のポートの柱がへし折れ屋根が吹き飛び,となりの家の庭に落ちていた。さらに泉の郷が気になり神社前を通過すると、熊野神社の大鳥居が横倒しになっている。泉の郷は南側戸板2枚が吹き飛び、オリーブの木が根こそぎ倒れ、バラの屋根付き柵が土台から吹き飛んで倒れていた。

その後8時くらいから停電、数時間で回復するだろうとLEDのランタンを点し妻とじっと部屋にこもっていたがそのうち水も出なくなる。昼はカップラーメンでしのぐが一向に電気がつく見込みがない。その後携帯電話の蓄電量が減ってきたので、太陽光から電源が取れる装置に切り替え充電してどうにかスマホによる情報は確保した。夕方6時になり夕食の時間になったが部屋は暗いし風呂にもはいれず、気温は35度と蒸し暑く、とにかく外に出て外食にしようと車で国道に出てはみたが、これがどこも渋滞、レストランは停電で休みか、通電しているところは売り切れと満席、コンビニは弁当どころか食料品の棚がガラガラ、やむなく自宅にもどりソーメンをゆでてさみしく二人で食べる。何もするこ とがないから寝ようとしても猛暑でうちわであおいでも眠れない。車にエアコンを回し、睡眠薬を飲んでどうにか車の中で眠りにつく。

停電2日目、昨夜は仮眠でからだは疲れトイレの水は流せず、汗ばんだからだとまともな食事にありつけずストレスの塊、ラインで長男は千葉市おゆみ野の家が電気がきているから 避難してくれば・・・東金高速道路も開通したという情報を得て、せがれ夫婦宅に駆け込み一安心。愛犬がいるのでその晩は家に帰り、翌日また千葉まで出向き長男夫婦にお世話になる。今回の台風は以外なほど被害が大きく房総半島全域で電柱や送電線が倒れ、地域によっては20日くらい停電が続き、ライフラインが途絶えた。実に50年に一度という天災である。おそらく瞬間最大風速50mは吹いたであろうと想像する。文明に慣れきって即 、緊急事態に対応できない自分が情なかった。各方面からお見舞いの電話や言葉をいただいた。口ではいろいろ言えるが、こころが動揺しうろたえる自分にまだまだ修行が足りないと現実思いました。

19.08.23

処暑である。連日30℃を越す暑さからやっと解放され田んぼの稲刈りも始まり稔りの秋を迎える。今年をふりかえってみれば昨年の年末の入院に始まり、病気と手術、療養の連続であった。さいわいにも1月1日から会社の役職を退き、年金生活者となったタイミングにピタリと合致した。それほど猛烈に会社一筋という生活ではなかったのだが、精神面のどこかに社員.パート80名の責任者としての緊張はあったのかも知れない。年金生活ともなれば何の心配や悩みはないだろうと思われるが、人生 はそうはゆかず日々の中に必ず、問題や障壁が発生する。先日、書を読んでいたら、苦難、悩みがあるのは生きている証拠である。と書いてあった。本当の意味での安寧(あんねい)は死後の世界のことなのだろう。そう思えば神様が自分にいろんな課題、テーマを与えてくれそれと立ち向かい、乗り越えるためのエネルギーを養ってくれる環境にあることをありがたいと思わねばならない。来月には長男に令和生まれの女の子が授かり、嫁さんの両親とともにお食い初めの祝いの席が予定している。

19.07.18

6/28 PM1:00 予定通り 東京共済病院にて 左腎臓、尿管、膀胱の一部を摘出する手術を完了する。PM6:00までの5時間、HCUに一晩、あと一般病室で術後の観察治療を経て7/7退院する。3年前の食道ガンの手術の際は胸、脇腹、のど付近を切開する手術、今回の腎盂ガンは左わき腹、3か所穴をあけ、腹腔鏡手術、ならびに腎臓を取り出すため左へそ下10cmくらい切開の手術を行った。前回は術後3週間で退院あとは自宅療養で、放射線治療を1ケ月半行った。今回は術後10日で退院はしたものの、傷あとの痛みが長引き、本日で3週間を経て、痛み止めを服用し、終日ベッドに身体を横たえている。他の医師から聞いた情報では、胸付近の切開は治りも早く、痛みも和らぐが、腹部の切開は収縮もあり、どうしても突っ張られるために傷の痛みの解消までは時間を要するとのことである。

食道ガンの時は食事の量が半減し、体重が10kg減ったままで不安を覚え、今回は痛みがなかなか取れないのでどこか化膿でもしてるのでないか、縫合がうまくいかなかたのではないかと猜疑心に悩まされた。こうした術後の経過について、医師なり看護師が一言患者に一般情報にあらわれないアドバイス、忠告をしてくれると患者は安心するのではないかと思う。手術さえ終わればあとは自分の体力の回復を待つというのが医学の常道だとは思うのだが・・・。

わたしもこの年代に至るまで、まさか2度のガンの手術をすることになろうとは思いもよらなかった。しかし、幸いにも、病院と医師に恵まれ、こうして命永らえている。ありがたいことだと思う。また家族、友人の励ましを受け、仕事上、経済上の心配もすることなく療養に専念できることもありがたい。平常の生活に戻るのにもう少しである。

19.06.22

5/30 東京 順天堂医院 泌尿器科 堀江教授と面談する。3年前胃・食道外科で梶山教授のお世話になったこと、旭中央病院で尿管結石の手術をおこなったことを話し、腎盂癌と宣告された今、今後の治療を堀江教授にお願いしたい旨を伝える。

とりあえず6/12当院にてPET/CT検査を行い、その結果をみて今後の治療方針を決めましょう。現在ステントが尿管にはいっていてつらい様子なので、この順天堂だと10月まで手術の予定がはいっているので、順天堂関連、または提携病院で早く手術可能な場所を探し、われわれスタッフが出向いて執刀する方向ですすめます。との回答をもらう。少し先が見て安堵する。

6/12 順天堂医院 PET/CT検査 約2時間を要す。

6/19 順天堂医院 泌尿器科 磯谷医師 PET/CT検査の結果、肺にかげりあり。がん細胞の可能性あるので、当院 呼吸器科の診断を受けるよう指示あり。問題なければ東京共済病院6/27入院、6/28手術の方向で段取りするとのこと。夕刻、呼吸器科(内科・外科)3年前のCT画像で肺の状態を比較すると、全く同じままなので今の時点で問題なしと判断できる。との結論。

6/20 東京共済病院(目黒、山手線恵比寿下車タクシー7分) 泌尿器科 中村聡医師。 妻洋美、長男吉徳同行で面談、「腎盂癌(じんうがん)」の手術手続きですすめる旨確認、6/28左腎臓、尿管、膀胱の一部を腹腔鏡手術により摘出手術を行う、約4〜5時間の予定、前日の6/27入院し、入院期間は約10日〜2週間とのことである。4/1 尿管結石の手術以来、体内にあるステントで 頻尿、尿漏れ、血尿、常時痛みと 鎮痛剤の服用と 苦しい80日間であった。やっと解決の道が開かれ、この約2ケ月間苦しんだのはなんだったのか?と思う。

食道ガンに続いての腎盂ガン、現代医学の検査機関の発達で病気がみつかり、適切な処置をしてもらえることに感謝。健康をとりもどせば、その分また世の中に還元しなければと思う。それもムリ無理してでなく、自然体で行えればと願っている。

19.05.18

今年320日に順天堂医院、食道・胃外科定期検診で造影剤CT検査にて 橋本先生の診断で腎臓結石と腎臓に一部疑いがみられるで地元の 旭中央病院で詳しい検査を受けるようにとの診断をいただきました。

322日旭中央病院に行き診察、CT検査 326日左尿管に結石と腎盂にくもり(血痕か悪性腫瘍か?)があるので3/29入院 4/1手術と決定。4/1 内視鏡による手術、尿管にある石は取り除くが 腎盂部分はがん細胞の疑いがあるので付近の石は取らず、検体を採取し、尿管にステントを入れて手術終了。(担当金子医師)

4/10 検体の結果が出て 細胞検査 良性で問題なしとのこと。次回結石を取る手術を5/10に行うと決定。

しかし突然、5/8 家族と一緒に来院されたしとのTEL金子医師よりあり。

4/10の報告は誤りで検体検査結果は腎盂ガンとのこと。したがって5/10の手術は延期し、6/6 左腎臓と尿管、膀胱の一部を切除する手術を行うとの知らせあり。

わたしはこの診断に対しセカンドオピニオンを求めます・・・その後どこで 手術を行うか決定したいと告げました。

5/10旭中央病院から 順天堂医院あて すぐさま セカンドオピニオンの通知を送っていただきました。5/13旭中央病院から順天堂医院に医療データとセカンドオピニオン依頼書が届いたと順天堂医院医療連係室よりTELいただきました。

その後 順天堂医院食道・胃外科 橋本教授に相談したところ 泌尿器科教授 堀江重郎様を紹介いただきました。

518日現在 順天堂医院からの連絡待ちの状態です。

また4/1の手術の際 挿入されたステントのためか? 頻尿(15分に1回の排尿)、排尿時の痛み、血尿、尿漏れによる不快感に悩まされ、早くステントから解放されたいとも思います。良い方向にすすんでくれればと願っています。

19.03.21

今回出版した一口一言のまえがき欄の写真に掲載した恩師岡垣先生、市川英語スクール(私は20年間、岡垣先生への恩返しのつもりで経営していた道楽の学校)で撮影した先生74歳、亡くなる8年前の写真である。

このころ先生がよく話されていた言葉「私は年齢からいって体力は衰えているかもしれないが、私の知性と頭脳はさらに冴え渡っている。今まで万巻の書を読み、森羅万象の研究を重ねてきたが今現在世の中に起こる事象がすべて明らかに澄み渡って瞬時に解明できる。自分自身ほんものの年代にはいってきたのを実感している」と・・・。今場所の白鵬をみていると数年前から限界説、下り坂と批判されているが、相撲取りに33歳復活説というのがあるそうだ。スポーツの世界で体力は全盛期を過ぎてもそれに勝る勝負勘、間合いを謀る察知力、自分を取り囲む全体の雰囲気と流れを読む力などはさらに充実の域に達して、勝つことが当たり前の境地に達するという。

わたしも、仕事の第一線を退いて3か月、人間の強欲にかられている人と、こころから素直で気持ちのやさしい人との区別が一瞬にして見えるように最近思う。肩書きがあったり、言葉上手な人はたくさん出会うがそんなひとはもううんざりだというのが今実感する。ますます偏屈なおやじになりつつあるのか?いや自分では良寛のようなまっさらな老人にだんだん近づいているのだと思っている。

19.03.07

昨年末に発症した意味不明の「スティーブンスジョンソン症候群」という一種の皮膚病に感染し、2月いっぱいの約2か月ちょっとでようやく完治した。2年半前の入院、手術、抗がん剤などの治療により自分ではもう元通りの身体にもどったと思っていても、基礎体力、抵抗力はやはり意識しない部分で弱ってきているのであろう。これからも自分自身、無理は禁物と肝に銘ずる。

2月15日発刊で、「店主の一口一言」を関係者、かつてお世話になった方、親戚などに手渡し、郵送などで送った。約半月で500部初版印刷で7割方配布、あとは村の市場東金店のサービスカウンターにてお客様希望者に無料配布の予定である。

こちらの身勝手で自己満足の自費出版の一冊のしがない本だが、目を通してくれ、感想を電話、メール、はがき、手紙などでていねいなお礼の言葉をいただき、「感動した!一揆に最後まで読んだ!」などの感想を寄せていただいて恐縮すると同時に逆にわたしのほうがありがたく感謝の気持ちで胸が熱くなった。

なぜわたしがこのように新聞の折り込み広告に一文を掲載するようになったのか、またそれが継続できたのか?そのきっかけは本の中にも書いたように須田先生の教え、「チラシはお客様へのラブレター」という考え方を守ったこと。継続できたのは、わたしが家業を引き継いだとき強く感じたこと、自分の住んでいる周辺にCultureという名にふさわしいものがどこにあるのだろうか?、自分の職場と職業にCultureという風土、雰囲気が存在しているか・・・の問いかけに十分こたえてくれるものが見えてこない飢餓感が一行の文章に託してみようと強く思う動機づけになったのだと思う。そして現在、書の211頁9月27日号に書いたとおり晴れて無位無官の身となった今、この本を読んでくれた人との感応、共振、こころの琴線でつながることの喜びをしみじみと感ずる。

たった一人の人でよい。自分の価値観に共鳴してくれる人がこの世にいるということが自分にとっての励みであり生きがいでもある。今回の出版で強く感じた次第である。

19.02.20

2月15日付けで「店主の一口一言」が発刊の運びとなった。私が新聞の折り込み広告の片隅に掲載した一文を約13年にわたり書き続けたささやかな文章である。 いとこの水産タイムズ社を経営する越川渚さんの紹介で日本新聞印刷、野村氏との縁で今回出版の運びとなった。さっそく知人、近しい友人らに「謹呈」の短冊を入れ送った。友人のひとりからコメントが入り「面白く一騎に読ませてもらった。できればあとがきを入れてもらいたかった」というのである。なるほど・・・そこまで思いが至らなかった。もしあとがきを書いたとすれば、

わたしは一口一言を通じてお客様と社会に向け、ヒトが生きていくうえで食べるという行為がどれほど大切なものであるか、その食料を提供する食品小売業がいかに重要な役割を担っているかを書き続けてきた。今こうしてその第一線を退き、次への課題を模索するとき、まず地球上の生物は子孫を残すとほぼ同時に自分も寿命を迎える仕組みになっているということである。ただ現代の日本では医療の発達により人生100年時代と言われ、第二の人生をどう過ごすかが重要な課題として突き付けられている。だが大局からみれば必ずヒトは死ぬのであり、究極のところ「どう死を迎えるか?」は重要なテーマである。いかに生きるかからいかに死ぬるか?避けては通れぬテーマは正面から向き合う必要がある。できればピンピンコロリの自然死が望ましいと誰しもが思う。しかし人間であれば自らの意思で死に向かう方法もある。それは絶食である。生きるために食べる行為があったのなら死に向かって食を絶つという行為も重要な選択肢のひとつである。ヒトは絶食により3週間から長くて70日で死を迎えることができるという。人工による点滴や酸素吸入もまったく施さないで心臓停止による安らかな眠りにつく方法である。

今回、わたしの言いたい放題、つたない文章におつきあいいただいたチラシ広告の読者、そして今回の出版した小冊子に目を通してくれた方、ありがとうございます。あらためて読者に励まされてここまでこれたと実感しております。感謝。

19.02.11

私にとっての生涯の恩師である岡垣勇先生、5年前の2月8日が命日である。先生の没後、埋葬先が分らず墓参りができないでいたが昨年教え子の一人であるS氏から連絡があり、東京都小平市にある小平霊園、合葬墓地に納骨されたという情報を得る。毎年先生の命日近くに教え子の面々、わずか4名であるが先生の遺徳を偲んで都内で食事会を行ってきた。そのメンバーで 5年越しでようやく墓参、焼香がかなった。岡垣先生は北海道江別市の出身、北海道大学文学部卒業後上京、上智大学大学院に学んだあと、大学、高校の講師を行ったのち、英国シェフィールド大学ウィリアム・エンプソン教授に英詩のチュートリアル(個人教授)を受ける。帰国後山梨大学教授を経て退職後予備校講師、市川英語スクール主事などを歴任。生涯のテーマは世界に通用する高い知性を具えることであった。私は市川高校時代に先生に教えを受け、「人は何で生きるか?」というテーマを突き付けられ、以後生涯にわたり先生に教えを受けてきた。文字通り私の人生の指南役であった。「人生は闘いである」「哲学、宗教の行き着く先は文学であり詩である」「日本人で過去に本当の意味で知性を身に着けて人はただ一人、空海のみである」「日本語で考えたら迷路に陥る、日本語は情緒的で知性にはほど遠い言語である」「人間にとって最も大切な価値、それはこころの優しさである」・・・先生の住まいは床が抜けるほどの何万冊の蔵書があったが、先生自身は一行の文章も書き残していない。自分をひからかすことをもっとも嫌った。英国の貴族の生き方を模範とし、白洲次郎、吉田健一らと並ぶ日本のジェントルマンの一人だったと思う。先生からいただいた御恩ははかり知れず、われわれの残された人生でどれほど尽くしても間に合わないくらい偉大なものであったと弟子4人で語り合った。

19.02.03

2月24日(日)午前10時より 例年のごとく 関口さん 指導のもと 味噌の仕込みを行います。8kg おけ込で 5000円

ただ今 参加者募集中です! 締切 2月13日 

藤城携帯 090-6107-1763 FAX 0479-84-3280 Eメール fujishiro@bg.wakwak.com  iPhon muraichi0207@gmail.com

連絡お待ちします。

19.01.31

今月も早や1か月が過ぎた。今年になってから依然として手のひらの化膿物は癒えないが、家族みんなが健康で穏やかに暮らしているのをありがたいと思う。妻も私も昨年末で会社との縁も一切なくなり、よく表現すれば自由の身となった。これからはすべて流れに身をまかせ、自然体で生きようと思う。こちらから仕掛けるのでなく、依頼されれば動くスタイルで当座は座して待つことにしよう。

19.01.12

会社を譲渡後、私は相談役として、妻は顧問として12月30日まで会社に在籍する契約になっていた。引き継ぎ事項のほとんどは終了していたが、年末最期の売り出しなど気がかりではあった。今回の緊急入院で、一切会社とは連絡はしない状態となった。店の店長と、新会社役員さんには何か不明な点があれば私のスマホに連絡をくれるようにとメールしておいた。結果私への連絡は一切なく、無事店舗運営も年末、正月とスムーズに稼働していた。今回の入院は、私の会社での役割を完全にシャットダウンするための環境作りをしてくれた天の采配なのだと思う。今まで50年間の仕事人生、そして経営をすべて整理し、もう一度頭をまっさらにする時間をいただけた貴重な時間と空間であった。まだ手のひらの皮膚は赤く剥けたままだが、口内炎、目の淵の炎症、などは一端収まったので退院の運びとなった。翌13日、家族そろって香取神宮へ初詣、今回は会社のお札は終了なので我が家用、「藤城一家」の名で「一家繁栄」の祈願をした。今年一年が無事、健康であるように、一家が栄えますようにとよどみなくお願いした。

19.01.02

昨年暮れに発病した不可思議な手の平の異常な腫物、一応の病名は「スティーブンスジョンソン症候群」の疑いということである。12/25の診察で一端治りかけたと思いきや、12月28日夜、再び猛烈な手指の痛みに襲われ、29日早朝5時30分妻に運転してもらい、旭中央病院緊急受付へ行き診察、幸い前回診断してくれた皮膚科専門医浦崎先生が担当してくれ、入院して治療することに決定した。一昨年、順天堂医院食道ガン以来の2度目の入院である。

2018年

18.12.26

1215日、順天堂医院に月に一度の飲み薬をもらいに妻と出かけたとき、前日の酒の飲みすぎからか足がふらつき身体がだるく感じた。

16日の日曜日、月に一度の掃除に学ぶ会に参加し、白浜小学校3階のひどく尿石がこびりついた便器の掃除を約3時間かけいつも通り素手で行った。多少体調をくずしてもこの10年、手袋をかけたことはなくそれでもなんとなかった。

翌日から37度の微熱がでたので東陽病院で診察を受けるもインフルエンザは陰性、単なる感冒だろうと解熱剤と咳止めを処方してもらう。その翌日からT氏らと約束してあった天草、熊本温泉の旅に出発、この程度の熱なら温泉にはいればなおるだろうと楽観。

しかし薬を飲み続けるが22日になっても微熱が続く。口の中が荒れて口内炎を起こしたので歯医者に行って塗り薬をもらった。このころから爪の間の指先、両手5本とも爪の上部5分の一くらいが黒ずんできて皮下充血の様相、びりびり痛く夜もよく眠れない。30年ほど前、右手中指先端の爪の中が化膿し、ヒョウソウの手術を受けたことがあるが症状がまったくそれと同じである。

23日は私が主催の門松を作る会があったので無理して行事をこなしたがその夜は38.5℃の熱、両手指先の痛み、口内炎による熱い飲食はとれず、ほぼ不眠状態。翌朝24日に旭中央病院緊急病棟にて診断、血液検査、胸部レントゲン検査など行ってもらい、抗生剤の点滴を受け頓服の薬をもらい帰宅後終日床にはいった。 

25日朝730受付開始と同時に旭中央病院内科へ受付、830浦崎医師問診後血液検査、造影剤によるCT撮影、皮膚科による診察、一応眼科でも診察してもらう。手、指、斑点状に黒く変色している部分の皮膚の検体切開。その他心臓エコーなどすべての検査を終え18時終了、抗生物質、頓服、顔、手塗り薬、目薬などをもらい帰宅、軽くフルーツを食べ、薬服用、3時間熟睡、びっしょり汗をかく。

急にからだが軽くなった感じ、パンパンにはっていた指先がいくらかスリムになり痛みもやわらぐ。体温計をあてると36.6℃・・・実に11日ぶりの平熱である。そのままその夜は熟睡できたのがうれしかった。

万病のもとは微熱が続くことというから今回、自分もいろんな可能性をじぶんなりに思いめぐらしてみたがその可能性として

@2年半前に手術した食道がんの再発または転移

A1年半前にみつかった左腎臓結石(石をとらずそのまま放置)による

B加齢からくる体力の衰えによる風邪か疲労

C1216日、トイレ掃除の際、便器に付着していた尿石及び汚れ落としを素手で指先を使い、サンドメッシュでこすってため爪の間から雑菌が侵入。

潜伏期間を経て、指先の化膿、指、手のひら、手首への静脈瘤へと飛び火、眼の粘膜にも転移、唇の裏側に口内炎として転移、目や口の粘着質部分に菌は飛び火した。抗生物質を投与することで鎮静したが、あまり地上に現れない悪性発熱、化膿性菌である。予防、手袋、消毒、治療、抗生剤、解熱剤、痛み止め。

安静、睡眠、といったところか 全治2週間の見込み。

 

18.12.12    「店主の一口一言」出版にあたり 「まえがき」

 今年8月末日をもって株式会社村市の企業譲渡を無事終結した。家業を継いで50年、妻とともに歩んで43年、会社創設より31年、村の市場東金店開店より18年目の現役引退宣言である。この間、一貫して食品小売業の道を歩んできた。決して平坦な道のりではなかったが、自分のやりたいことへ思いっきり挑戦して思い残すことはない。

 毎週1〜2回、新聞折り込みにチラシ広告を入れた。そのチラシのタイトルのとなりに「店主の一口一言」というささやかな一文を掲載し続けた。20054月より20189月まで約13年余の私がお客様へ伝えようとしたメッセージの記録である。

 妻からこれを一冊の本にまとめておいたらと言われ、自分にそんな尊大なことはできないと無視していたが、今この仕事から完全にリタイアする段になり、まあ妻の言うのも一理あるなと思い、出版の運びとなった。

 いくつか同じような文の繰り返しもあるがあえて割愛せず、そのまま残した。駄文だが、私はその一行一句に魂を打ち込んだつもりではいる。お店のありよう、店主の商売に対する取り組む姿勢をお客様に理解していただきたい。・・・というのが1点、わが社で働くスタッフ及びお取引先の方に、私の考え方を理解してもらいたいのが2点目、そして困難に直面したとき、過度に落ち込まないよう自分を励ますため、順調に事が進んでいるとき慢心して落とし穴に落ちないよう自戒するためというのが3点目、この一文を休みなく書き続けることでブレない自分でいられたのではないかと今思う。

 わがままで、強引に突き進んできた私を励まし、アドバイスいただいた先輩諸兄、ともに歩んだ現場スタッフの面々、お店を愛しご利用下さったたくさんのお客様、あらためて心より感謝申し上げます。                        合掌     村の市場 店主 藤城 吉雄  平成30年12月31日

 

18.12.06

今回株式を譲渡したグループ会社に招待され京都を旅した。東福寺の燃えるような紅葉に感動し、観光タクシーの案内で商売繁盛の神様でもある伏見稲荷大社に詣でた。この社は、関西以西の事業を営む人たちが遠く九州からも訪れるという。経営者はぎりぎりのところで誰にも相談できず判断を迫られる時がある。神という見えない力にすがる時がある。私と妻は無事事業を果たし終えた感謝と御礼の参拝であった。

18.11.27

友人のT氏に誘われ、タイの国チェンマイの寺院のお祭り「コムローイ」・・・数万個のランタンを一斉に夜空に舞いあげる宗教行事を見物がてらの旅をした。今回初めて出会った旅仲間の一人N氏は旅慣れた人だが無類の読書好き、暇さえあれば本を手にしている。彼いわく、今の時代、スマホとやらで物知りは沢山いるが、本を読んでる人は人間に深みがあって、つきあって楽しいとおっしゃる。なるほど読書することで人間の奥ゆかしさが出るのだなと学んだ次第である。

18.11.19

今回の私と妻の株式譲渡について、旧来の仲間が声をかけてくれ、見事に会社を終焉、バトンタッチしたことを「称える会」を開催してくれた。実に28名の参加者であった。日ごろから心から信頼しあっている、何の駆け引きも利害関係もない、文字通り素交の仲間たちである。何よりも嬉しかったのは先輩格である8才から15才くらいの年上の先輩が数名来てくれ、「同志」としてお祝いしてくれたことである。先輩たちの度量、経験、知識に対し、いつも敬うこころで接してきた。その事が先輩から可愛がってもらえた理由なのかも知れないと思う。

18.11.13

大相撲九州場所、白鵬、鶴竜2横綱休場で頼りの一人横綱稀勢の里が初日から3連敗、戦国乱世の時代にはいった。私は10年前、両国国技館に相撲を見に行ったとき、当時関脇だった白鵬を見て、この人の並外れた才能を感じた。以後、相撲界で双葉山と並び称される立派な横綱になってもらいたい、白鵬ならそれができると応援してきた。ところが彼がモンゴル出身であることが問題あるのか相撲界幹部は「やれ、かちあげはいかん、張り手はいかん、土俵際で駄目押しはいかん、・・・と重箱の隅を指摘します。朝青龍が土俵を去ってから一人横綱として頑張ってきた白鵬に対しての敬意は感じられず、スポーツ界では海外から人の流入が当たり前の時代、日本人以上に日本の文化と伝統を学び尊敬し、日本の国に骨を埋めようとする外国人を排斥する姑息な日本人がいるとは思いたくないと・・・相撲界を見て思うのだが。

18.11.07

昭和37年に卒業した中学校同窓会幹事を引き受け、案内状の送付と出欠の返信はがきの集計の仕事を請け負った。皆さんこころ優しく、前回開催した事例にならって行い、あまり突飛な企画はよく思われないことがわかった。私は仕事柄、絶えず新規の発想を心掛けてきたから、何かもどかしい感じがする。しかし、子いわく「60にして耳したがう」である。これからは自分を控えめに・・・。

18.10.30

社長を退任し、相談役となって2か月が経過した。なにが変わったかというと、決定しなくなったことである。日々、前へ進むか、退くか、右にゆくか、左にかじをとるのか、小さなことのひとつひとつ決めるのが習慣となっていた。その日に起きた問題はできるだけ明日に持ち越さないようにもこころ掛けてきた。今はこうしたらどうかとアドバイスするのみにとどめる。重さがまったく違うのである。

18.10.23

一昨年7月に私が食道がん、妻が大動脈かい離の大きな手術を同時に受けたことが今まで営んできた事業に終止符をうつ大きなきっかけとなった。わたしにとっては、大学を2年で中退したとき、千葉市おゆみ野店を2年で撤退したとき、そして今回の事業譲渡が終わりの決断を下した大きな場面である。前に進むときは勢いで行けるが、退く時期は孤独な自分自身の決断である。自分なりの美学がその根底にある。

18.10.15

株式譲渡から1ケ月半が経過した。取引先の方からこれからどうするのですか?と聞かれる。今のところ何も考えていないのが正直な答えである。ある意味、朝から晩までお店のことを考えていたから趣味らしいものも持ち合わせず、ただ1点、自分の世界を大事にしてきてその場所が泉の郷という拠点である。これからの人生の目標として「精神の昇華」を掲げたい。

18.10.09

十七世紀の禅僧に桃水雲溪という僧がいた。毎日托鉢に出てそれで食事をし、蓄えをまったくせず、少しでも食料が余れば乞食に施した。乞食生活は自らへりくだること、食物の好き嫌いを言わないことの二つの点で理想的な出家生活である。遊行と乞食生活こそ仏道の修行にふさわしい。−渡辺照宏「日本の仏教」より。私はここまでの覚悟はないが、これからの人生は自らの魂を純化させるための修行でありたいと願っている。泉の郷 庵主

18.10.02

先日、友人が月刊誌致知の編集長の言葉で「人生の法則」という一文を送ってくれた。その中に「三十年で得た気づきは、人生は何をキャッチするか、キャッチするものの中味が人生を決める、ということである。同じ話を聞いても同じ体験をしても、キャッチするものの中味は千差万別である。つまり人生は受け手の姿勢が問われる。ということである。そしてキャッチするものの質と量は、その人の真剣度に比例する」と。私も会社を営んで31年経過し、ひとつの区切りをつけた。感慨深いものがある。泉の郷 庵主