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環境目次 店主の一口一言

        庵主のくり言

店主の一口一言を引き継ぎ 「庵主のくり言」です。

参考論文-1 「熊野神社の杜とわたし」 参考論文-2 「麻をたずねて」

2018年〜2022年

2018年

2019年

2020年

2021年

2022年

 

22.11.17

深まりゆく秋、旅仲間と別府温泉の2泊3日の旅を楽しんだ。目的は野湯、秘湯を尋ねる旅である。宿は1日目、大江戸温泉清風、別府湾を望む海岸沿いの比較的安い宿である。セルフサービスをふんだんに取り入れ、無駄な経費を省いて少しでも安い料金で提供しようという全国展開するホテルである。今はガソリンスタンドはもちろん、病院やコンビニ、スーパーのレジに至るまで、セルフが浸透して、われわれは抵抗なくセルフサービスになじんできている。このホテルも、ロビーで受付をすますと、浴衣、タオルを自分のサイズにあったものを自分で取り出して部屋にはいる。布団は折りたたんだまま部屋の片隅に置いてあるので自分で布団を広げ、シーツを敷いて寝床を用意する。別段抵抗もない。

食事もまたバイキング形式、だが食材に手抜きはなく、新鮮で地場のおいしい食材をつかい、豊富な品揃えにプラスしてふんだんに調理しながらの作りたても提供している。この地の名物、関あじのアジフライ、団子汁、真鯛のカルパッチョ、大分牛のカルビ焼きなどどれをとってもおいしい!のである。サービスのメリハリの効いた心地よさは新しいビジネスの方向を感じさせた。

別府温泉といえば、かつての団体旅行、社員旅行の代表格で、現代の家族旅行や趣味的温泉をじっくり味わう時代には適合しなくなってさびれた大型施設が立ち並んでいるかと想像していた。しかし、現実は相変わらず地獄めぐりは人があふれ、温泉はふんだんにあふれ出て、国や県の補助金、クーポン券の提供もあって温泉街と市内は活気にあふれていた。

われわれ旅仲間の目的である秘湯の湯・・・明礬温泉「鶴の湯」「蛇の湯」はいずれも人里離れた山あいからのすばしいいで湯であった。別府市内の秘湯を守る会の方々がボランティアで清掃管理してくれて守られている。3日目の最終日の昼、別府市内にある共同温泉「竹瓦温泉」の風呂にはいる。ここは砂風呂もあって、普通の湯が300円、砂風呂が1500円ではいることができる。明治時代に作られ昭和初期の建物だというが、四国松山、道後温泉本館に匹敵する何とも居心地のよいすばらしい建物となめらかな温泉である。最高の満足、ここまでわざわざ入浴に来る価値があると思った。デトックス効果があるという砂風呂、次回来た時、ぜひこれに挑戦してみたいと思う。

宇佐神宮のパワ−スポットで元気をいただいて大分の旅を満喫した。この写真が竹瓦温泉の建物である。

 

22.10.27

22.04.18 この欄で紹介した栗山川花街道、かねてより堤防沿いの散歩道、砂利道で数年に一度は地ならししてくれるのだが、水たまりからやがて穴ぼこができ、とても快適な遊歩道というには程遠い状態であった。「町長への手紙」等で5年くらい前からこの道の舗装をお願いしてきた。今月念願かなって山武土木事務所の管轄のもと、畔蒜工務店施工で約2週間かけ、舗装工事が完了した。これで国道126号より九十九里浜までの旧光町川の堤防添いはすべて舗装が完了した。他の市町村のウォーキングの会の方々、ぜひ一度いらして下さい。

ふれあい橋上流より下流を臨む

                                  

泉の郷付近 下流より上流を臨む

私は泉の郷の畑の草取りを行ったのち、後期高齢者となったのを期に4分の1の面積には果樹を植えることに決め、「イチジク」「次郎柿(甘柿)」それぞれ2本ずつ と「輝太郎(甘柿)」1本を植えた。(右の写真)

「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」マルティン・ルター

左の写真は 大島桜苗木を 熊野神社前 畑に植えた。条件がよいので1千年生きて欲しいと念願する。

     

 

22.10.20

友人S夫婦と私と妻4人で新幹線で秋田まで、そこからレンタカーで鯵ヶ沢温泉→青森→新玉川温泉→乳頭温泉 鶴の湯と 東北の紅葉と温泉を尋ねる2泊3日の旅を楽しんだ。

青森市内から30分ほど離れた「三内丸山古墳」をボランティアガイドの案内で約1時間見学した。事前にこの縄文古墳について勉強しておいたが、実にこの青森の地で1万4千年にわたり5百戸の集団生活が営まれていたという遺跡である。徳川時代が260年、明治以降の機械文明が170年、弥生時代の米の文化が2千年余である時間の単位を考えると、狩猟、漁労、栽培の組み合わせによる食料の確保と、安定した平和な社会生活を送りながら1万年のサスティナブルな生活が持続したことのすごさはただ驚きである。

小学校の教科書で弥生文化の登呂遺跡は学んだ記憶はあるが、それは単に考古学上の発見の一部としての知識に過ぎず、この「三内丸山古墳」の発見は世界、地球上でこれほど安定した世界が持続して営まれた記録として稀に見る日本人の過去の素晴らしい事実の証(あかし)である。そのことをまずわれわれ日本人がよく理解し、後世に世界に民族の誇りとして伝えなければと思った。

 

この再現された棟は栗の木を素材に縦横 35cmの倍数の長さに統一され、上に向かい2度の角度に安定するよう作られている。石器を磨いただけの機械を使い、手編みのロープで住民の総出で建設されたと想像される。建物の目的は宗教行事に使われたのだろうが、5000年前にこれほどの文明が営まれていたのである。現代文明100年の歴史がいかに危うく、頼りないものであるか、持続性のないはかない?ものであるかを思い知らされる!

この翌日、新玉川温泉、乳頭温泉、全山紅葉の東北を満喫する.

 

 

22.08.31

暑かった夏も終りを告げ、秋風が吹く。先日のお盆を迎えるにあたり、妻からの依頼で仏壇にある線香立ての敷物が汚れているので新調しようということになった。東金に買い物があった折、成東の仏具店に立ち寄り、目的の敷物を購入した。その店の入口に立派な仏壇があった。黒檀のそれは見事な仏壇で一目見て気に入ってしまった。今まで幅1mほどの普通の仏壇よりはるかに大きいので、ツバキ住宅、椿社長に押し入れの改装について相談すると、多古町に神棚、仏壇の卸業者があって、豊富な品揃えなので一度見てはどうか? とすすめてくれた。多古町の塩清(しおせい)商店伊藤社長の連絡先を教えてもらい早速現場直行、メーカーである徳島から仏壇を取り寄せるから現物を見てくれという。

かつて東北や北陸を旅した折、山形と新潟の民家の仏壇に案内されたとき、家の大小に関係なく、仏間、仏壇のあまりに立派なのに驚かされた記憶がある。浄土真宗が主な北陸方面では特に立派な仏壇が多く、祖先崇拝が日常に重んぜられているのをすばらしい文化だと感じていた。

幸い私の家には和室8畳、神棚、仏壇をまつる部屋、仏間がある。この部屋に自分の希望する仏壇を備えよう・・・とこころに決めた。伊藤社長にお願いして、値段は差し置いて黒檀(他に紫檀、けやき、 屋久杉などを材料とする仏壇もあり)の彫刻がよくほどこされたたっぷりした大きさのものをとお願いし、お盆も一段落した8月20日、菩提寺である世貴山永享寺橋浦住職にお願いし開眼式を執り行い、無事安置した。先祖の位牌もきれいに清掃し、花や灯籠を飾り妻とともにこの仏間の完成を喜んだ。

 

22.07.15

7月15日 コロナウィルスのため、全国のお祭りが中断されていた。今年は規制がいくらかゆるやかになり、東北の秋田竿灯、青森ねぶた、仙台七夕も3年ぶりに開催されることとなった。私はかねてより、京都八坂神社の祇園祭を一度観たいと思っていた。幸い、今年は開催されるということで、1日目、長良川鵜飼、2日目京都祇園祭宵山、3日目山鉾巡行、4日目城崎温泉西村屋 本館宿泊、5日目三方五湖の4泊5日の豪華ツアーに参加した。

旅立ちの前はくもり時々雨の予報であったが、運よく雨に降られず、山鉾巡行は強い日照りの暑さにほうほうのていであったがそれでも祭りを満喫できた。

今回の京都観光で異色の発見があり感動が得られた。3日目の昼食が川床料理、場所は高山寺の近くの渓谷沿いであった。食事は今が旬の鮎の塩焼きがメインであったが、ゆばや高野豆腐、生麩など京都ならではの食材でとてもおいしくいただいた。食後、栂尾(とがのお)高山寺を尋ねる。開祖は明恵上人。当山の住職より上人の出自、人柄など解説があったが、鎌倉時代、法然、親鸞、日蓮、道元など、陸続として高名な 上人和尚が輩出した時代に、明恵上人は後の世にさほど有名ではないが、仏教の本質を極めようと命がけで道を求め続けた偉大な宗教家であると私には思えた。高山寺は一般には鳥獣戯画図の国宝が保管されている ので有名である。

偉大な人物とは何か?の定義は人それぞれ価値観の違いはあろうが、私は精神の高貴性、気高さにあると考えている。その意味で明恵上人は一切の世俗に媚びず、お釈迦様の生き方を一途探求し、命懸けで追及し続けた人である。法然、親鸞は難しい仏教の哲理をただ 六文字「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生を遂げられると解いて、広く一般に浸透させたが、明恵上人は一切の妥協を廃し、ほとけの道の真髄を極めることに一心をささげたので ある。後鳥羽上皇はじめ一部の上層階級にその支持を得られたのみであった。今、あらためて華厳宗開祖明恵は、「仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践した」人である と言える。

旅に出ると日頃の自分を見つめなおすと同時に何かしら新しい出会いや発見、気づきが得られるといつも思う。感謝。

22.07.11

7月8日 昼の11時ころ、元総理大臣安倍晋三氏が奈良西大寺近くで参議院選挙の応援演説中に暴漢に銃弾で襲われ出血多量のため同日午後5時過ぎ67才で亡くなられた。7月10日の参議院選挙の開票の結果は自民党の圧勝であった。

安倍さんが2度目の首相を勤めるときの日本は、民主党の烏合の衆の集団はまったく政治のリーダーとして無力で、株価は8000円、対ドル日本円は90円と株価の低迷と円高に苦慮し、デフレの真っ只中で日本中は閉塞感に包まれていた。

安倍さんは「アベノミクス」を唱え、金融緩和を含め経済の立て直しをはかり、日本中が明るさを取り戻し、雇用は増し、企業は収益を回復し、賃金も上昇する好循環を生みだした。彼の明解な言論、活発な外交、ことあるごとにTVでのインタビューで国民にわかりやすく経済、社会の問題点を浮き彫りにし、国民に協力を求めた。

かつてのアメリカ大統領J.F.ケネディがオープンカー上で凶弾に斃れたごとく、偉大なリーダーは非業の死を遂げることはままあることである。御霊よ安らかであれ、そしてこの日本国家の存続が永遠であれと祈るばかりである。

安倍元総理に哀悼の意を表し、泉の郷の国旗掲揚等の国旗を半旗として掲げ喪に服す。

 

22.06.18

村の市場横芝光町店跡地、鉄骨の建物を解体し更地としたのが昨年8月、以来芝を植え数本の木を植えた。ここがかつて東陽村村役場のあった場所であることを記録しておくのがよいのでは・・・ 千葉の姉さんからの提案を素直に受け入れ、昭和33年、父 博が借金をし、500年くらい住んでいた先祖からの土地を町に売り払い、小売業を展開しようと取得した貴重な土地である。私が肉屋からスーパーマーケット業界へと変換をとげながら事業を拡大できたの父の英断があったればこその思いをここに記す。

 

22.06.01

無事手術も終り、術後の静養ということで、家でぶらぶらしながら早や2ヶ月近くが経過しようとしている。

4月22日 千葉そごうデパートで白洲次郎・正子展を開催中という案内をもらっていたので妻と出向く。牧野伸顕という英国通の外交官の家に生まれ、オックスフォードのエリートコースの学問をし、戦中は大東亜戦争の無意味さをさとって武相荘の別荘で正子と百姓生活、戦後吉田茂首相のもとで、GHQマッカーサーとわたりあって、屈辱的占領下、一歩もひかず対等外交に徹して日本の独立への基礎を作った白洲次郎。妻正子は少女時代をアメリカで過ごすが、日本に帰ってからは能をはじめ、日本の古美術の発掘、著作をふくめ、日本の伝統文化を豊かなエッセイで後世へと伝承した。

白洲次郎の英国びいきは、同じく吉田茂の長男、吉田健一氏が「ヨオロッパの世紀末」などの評論をはじめたくさんの著書で英国の文学の本質を極め、独特の文体で日本に紹介している。

5月11日 順天堂医院磯谷医師の術後の診断がありお茶の水まででかけた折、さいわい術後の経過順調で問題なしということもあり、電車で小一時間、横浜 元町 港の見える丘公園で開催中の「吉田健一展」を一人観に出かけた。ちょうど公園ではバラの花が満開であった。岡垣先生が日本人では空海に次いで最も敬愛した人物のひとりであり。岡垣先生の英国びいきは、ロンドンで個人教授を受けたウィリアム・エンプソンの影響はもちろん、多くは吉田健一氏によるところが大きいと私は解釈している。

日本の戦後が、英国よりもむしろアメリカに向いて、経済第一主義になりがちなのを先生は憂いていた。今一度世界に通用する知性、英知、文学的感性の追及という部分に先生の視点はあったのだと思う。その意味でここ数十年、吉田健一、小林秀雄クラスの教養人が見当たらないし、輩出する気配がないのは残念だと思う。

岡垣先生を偲ぶ会数名で毎年先生の命日2月8日近くの2月11日を墓参の日と決定したもののここ2年続きのコロナ禍のため休止、たまたま吉田健一展の件で声掛けしたところ、須永氏より6月8日が岡垣師の誕生日ということで、コロナもやや沈静化の兆しが見えてきたこともあり、有志で6月4日、久しぶりに墓参りすることに決めた。

岡垣先生の有名ではないが偉大さはとても筆舌で表しきれないものがある。その遺徳を偲びながら日々の治部自身の生き方の居ずまいをただそうと思う。

 

22.04.18

順天堂医院での膀胱がん手術もコロナ禍、一人で入院から退院まで1週間の生活を無事終えた。手術後10日経過し、排尿時の違和感と頻尿が続くが、全体に快方に向かっている。

畑仕事として、豆類の棚作り、なす、キューリ、トマト、ピーマン、とうがらし、ししとうなどの夏野菜の苗の植え付けなどあわただしく作業をすすめなければならない。体調を考えながら、無理せず、楽しみながら行おうと思う。

一昨日から我が家の愛犬太郎が我が家から脱出、行方不明、妻がいろいろ詮索して悪いイメージをいだいたりもしたが、今朝、私の山カンで、このあたり・・・という場所付近で犬の吠える声を聞き、よそ様の犬の散歩と一緒の太郎を発見した。我が家から500mほど離れた住宅地、長谷川さんという雑種の白っぽい柴犬メスのところに居候していたことがわかった。長谷川さんには大変迷惑をおかけしたが、まずは無事帰還して何よりである。

下記、栗山川の桜の開花が終わったのを見はらかって、一文をかかげた。

 

 

【栗山川堤防沿いの桜並木について 】

栗山川ふれあい橋より下流に向かい旧光町側堤防沿いに植えられたソメイヨシノ約二百五十本は、1995年より毎年20本ずつ約十年にわたり、苗木を原方地区木原孝明氏より寄贈していただき、地元有志数名により施肥、剪定をし管理、成長を見守ってきた。ふるさとの川としての栗山川は、飲料水としてはもちろん、房総半島一帯の田畑を潤す農業用水としても貴重な河川である。横芝光町はこの川をはさんで合併し共存共栄する位置関係にある。この桜花が、両町町民にとってのいこいの場として、また両町のふるさとの象徴として将来にわたり咲き誇って欲しいと念願する。 

    令和四年四月 泉の郷庵主 藤城吉雄記す

 

22.04.05

明日から、3月18日順天堂医院 泌尿器科 磯谷医師による膀胱鏡(内視鏡)検査により見つかった初期の膀胱がん、・・この手術のための入院である。

栗山川沿いに木原孝明さん寄贈による桜の苗木を植えたのが25〜30年前、合計約250本の植樹、栗山川ふれあい橋より旧光町側堤防約1000mにわたって植え続けた。当時、三木会と名づけ、冨永さん、高橋さん、上田さん、鈴木さんらと下草刈りを行い、クズなどのつたカズラを刈り取り、成長を見守ってきた。我々の生きているうちに花見は無理だろう・・・と話していたが、この写真のごとく立派な桜並木となった。

今年、畦草刈り機を23万円で購入し、本格的に土手の草刈りに挑戦した。長く伸びたすすき、からまったクズのつた、かずら、野ばらのとげ、えのきの幼い木と思われる雑木、生い茂った篠竹、これらの難敵を相手にコツコツと根気よく無理せず1日3〜4時間を費やし、合計1ヶ月をかけてほぼ完璧に草刈りを終えた。刈り終えた雑木の処分も大変な労力であったが、草刈り機と4WDの軽トラックのおかげで何とかやり遂げた。30年来の目標達成である。この土手に今、生き生きと喜びに満ちて桜咲く。

 

22.03.29

昨年5月6日のこの欄で紹介した東京在住鈴木猛氏が熊野神社に無償譲渡してくれた山林、その後、名義書き換え、礼状と無事事は進んだのだが、間もなく1年を経過する今境界もわか らず、山林は荒れ果てたままであった。

役員によびかけ、現状立ち合いをお願いしたのが3月19日朝境内清掃の終了時である。一応巻き尺と境界用の杭を用意したものの、境界の起点となる目印が見当たらず、明確な境界を確認できないまま境界 らしき場所に仮のロープをはるまででその日は終えた。

私と椎名氏は北側の部分を刈り込んで、泉の郷側からのブロック塀の延長線上をたどらねば、境界は明らかにならないだろうと想像していた。

翌20日から竹藪の刈り込み整備を開始した。枯れた竹、薮と化した木々をチェーンソーで刈り込み、ワイヤーロープで束ね、四駆の軽トラックで引っ張り出し、ある程度まとまった時点で広場でそっと焼却の手順を踏み、 椎名氏の応援を得て下記の写真のごとく見通しのよい境界の作業道をつくることができた。

この作業のおかげで西側境界の杭も見つかり、譲渡の山林1114平方メートルのほぼ全容を確定することができた。右の写真は境界が今後また竹藪とならぬよう防草シートを張り詰めた様子である。

11年前、泉の郷を建設したとき、会発足の志である「里山の保全」・・・なぜ日本のふるさとの里山が荒廃したのか?その最大の理由は燃料革命で山林、野山に人がはいらなくなったこと、木々の下枝を伐ったり下草を刈ったりしなくなり、篠竹、つた、カズラ類が生い茂り、光が入らず、風が流れず、野鳥が棲めず、ホタルがいなくなった。

その具体例がこの私の目の前にある。

この境界を切り開くことで、健全な里山の管理維持につながってくれればと願う。

全国の神社の鎮守の森が、里山再生のひな形、お手本となってくれるような神社の運動が起こったらなと念願する。

コロナが沈静化し、譲渡主である鈴木氏がこの鎮守の森を見て、感動し、喜んでくれる姿を想像してわが喜びとする。

 

 

 

 

22.02.15

外房一帯へ利根川の水を導く「両総用水」の一大事業を私財を投じて成し遂げた「とえだゆうぞう」 記念碑と森を訪ねました。 作家 乾 浩さんの紹介です

 

【房総の偉人 十枝雄三】

戦前の80数年前、九十九里平野は昭和8年と15年、2度の大旱魃でクワやカマをもっての水争いの絶えない農民救済の為に、時の村長十枝雄三氏が80数キロ先、佐原の利根川から下総(県北部)、上総(県南部)の香取郡、匝瑳郡、山武郡、長生郡、四郡に跨る51町村への引水という壮大な発想を念頭に、50才過ぎから、当時、名誉職で無報酬の県会議員となって家屋敷を質草に自費の活動で、戦後のGHQ(マッカーサー)との不退転の交渉を重ね、我が国初の世界銀行から当時の5億円の融資を得て、両総用水事業を千葉県事業から、国家事業に昇格させ、30年かけた事業は昭和31年に完成に至った。この森は、この屋敷で両総用水を発想し、自前の活動費で事業を完成させた十枝雄三翁(十枝家14代)の住居跡地です。この用水事業完成により近隣の市町村の都市計画により、九十九里平野は一転して国内屈指の穀倉地帯に変貌し、現在の千葉県外房地域の発展の基礎となりました。 

 十枝雄三翁は無報酬の県会議員で家屋敷を質草に自費の活動であった為、30年を要したこの大事業で家屋敷は人手に渡りましたが、次女、澄子さん(15代当主)が結婚もせずに縫製の内職収入で取り戻し、400数十年の十枝家に後継ぎもなく自然保護を条件に大網白里市に寄贈され、現在、十枝家の意をくんで「十枝の森」として自然環境保全を行っております。 

森の自然は10代当主が明治初期の廃仏毀釈で神官として京都出張の折、持参したイロハモミジが群生し、400年を過ぎた楠木とトチノキ、ケヤキなどの大木や、四季に咲く野草の花などの豊富な自然が形成されており、新緑の見事な4月からの市民の音楽会や11月下旬から染まるイロハ紅葉祭は県内の名所となり近隣住民の「癒しの森」として親しまれております。

 

22.02.08

芥川龍之介に蜘蛛の糸という短編小説がある。

新型コロナウィルスがオミクロン株という新種が出現し、アッという間に世界中に広まり猛威を振るっている。日本も急遽第3回目のワクチンを実施することになり、私と妻に、役所から2月3日からワクチン接種の予約を開始しますとの通知がきた。@かかりつけの医院で直接担当医に予約をお願いする。Aインターネットで役所の設定した指示に従い予約する。B役所専用電話で直接話して予約をする。・・・この三つの方法から選べというのだ。

前回の教訓からBはやたら電話回線が混雑してなかなか電話がつながらない。@は特に行き着けの個人のお医者さんんもいないのでこれはパスAのネットでの予約は以前にも行っているし、2月3日午前9時以降なら夜間、休日でも受付可能とあるからこれでゆこうと決めていた。

2月1日、90才になる友人J氏からTELが入り、ワクチンの予約をネットで一緒に行って欲しいと連絡があった。こころよく引き受け、2月3日の朝を迎える。

私と妻とJ氏、3人分の予約を指示に従いパソコンを開き、入力画面にはいった。時計をみたら、午前9時30分、・・・するとびっくり! Aの予約可能な公共機関への予約はどの会場も2月はすべて満席である。3月の最初の3月2日にやっと空きがあって、そこに3人の予約を入れた。

自分は昭和22年の戦後のベビーブーマーの生まれ、受験にせよ、就職、結婚、住宅の購入など、どの場面でも競争 の中を歩んできた。まして事業経営をしてきたから、時には生き馬の目を抜くようなこともしなければならないこともあった・

しかし、現役を引退した今、「自未得度先度他」自分より他のしあわせを願う心で日々過ごすこと。と、こころがけていたはずである。パソコンに向かって予約を取ろうとしたとき、自分は他を蹴落としても我先に予約を入れようとするこころが働いていたのではないか?芥川龍之介の蜘蛛の糸にぶらさがろうとする、ワクチンの予防接種を受けようとする人を蹴落とす気持ちがあったのではないか?・・・と反省したのである。

2月7日、満75才の誕生日を迎えた。後期高齢者の仲間入りだそうである。そうだ!自分は自分よりも他の人に蜘蛛の巣を先に譲らねばならないのだ。われ先に蜘蛛の糸にぶら下がろうとした自分が老境にはいる覚悟ができていないと恥じた次第である。

22.01.19

先日の日曜日、友人に誘われ東金文化会館で開催されたベートーベンの「第九」交響楽と歓喜の歌の合唱を妻と鑑賞した。指揮者はカラヤンのアシスタントを勤めたという山下一史氏、千葉交響楽団の演奏であった。指揮者、演奏家、声楽家が一体となってのすばらしいハーモニー、生演奏の迫力に圧倒され酔いしれた。

2年越しのコロナ禍の元、絵画や美術、音楽、観劇など、芸術活動のほとんどが休止の状態が続いている。しかし、「人はパンのみに生きるにあらず」こころに潤いと栄養がなければ生きられないようにできているらしい。このコラム欄20年9月に上野美術館にゴッホの絵を見に行ったように、今回のコンサートはこころから満ち足りた感動の時間であった。

こうした企画、運営をしてくれる大里さんや、合唱に参加するために地道な練習を重ねた方々に敬意を表する。地域活性化の本質はその地域の文化度(芸術度)のレベルアップではないだろうかと私は思う。文化を支える経済の力が条件となるのだが。

22.01.02

正月元旦、子供たち一族が集合して中華おせち、お雑煮など、ごちそうを食べながらにぎやかに歓談した。昨年、一昨年とコロナ禍でなかなか一同に会することがなく、寂しい正月であったが、今年は元気に集まれて安堵した。
次女から「お父さんは今が一番しあわせな時じゃないの? 時間は自由に使えるし、そこそこお金の心配もなく、お母さんが食事から家の中はすべてこなしてくれ、社会的にも適度の人のつきあいと好きな仕事にたずさわり、おいしいものを食べ、健康にも恵まれている・・・。」

と言われたが、なるほど言われてみれば、会社経営のストレスから逃れ、気ままに余生を楽しんでいるともいえる。「道楽」といえる特段趣味はないが、こうして気ままに暮らすのも人生を道楽として過ごしているといえるかもしれない。

さて、今年の一年の計は・・・

人は人生の経験を重ねれば重ねるほどその魂は純化されねばならない、というのが私のひそかな目標でもある。そのために何をなさねばならないか?

ここ5年続けている「歩禅」=毎朝1時間ウォーキングを継続して続けること。今年の春に四国、八十八か所巡りのお遍路を実現すること、写経を月1回は行うこと、「自未得度先度他」自分より他のしあわせを願う心で日々過ごすこと。

これを目標に過ごしてゆきたい。また村の市場光町店の跡地の再利用法も視野の入れてゆきたいと思う。この欄を見て下さる皆さん、今年もよろしくお願いします。

 

21.12.03

先月、2年間裁判で争っていた事柄がようやく和解、結審した。私が提訴した事件だが、人生で最初で最後の稀な行為だと自分でも思う。

私は子供のころから人と争うのが苦手で、喧嘩はいつも泣かされてばかり、喧嘩になる前に逃げ出すか闘いの場に関わらないようにして過ごしてきた。自分の力量を知って、同じ土俵では争わない・・・が私の貫いてきた処世術である。

しかし、今回はある一身上の事柄で、双方に見解の違いがあって金銭上のトラブルとなり私の方から提訴した。

この裁判で学んだことは、絶対の「正義」はこの世に存在しない。自分が正義と思っているのは単なる自己満足にすぎない・・・という事実である。裁判とは自分の正義と相手にとっての正義との戦いである。その仲裁にはいる裁判官もやはり人の子であって、裁判官のその人の器での価値判断で最終結論をだすので、それもまた煎じ詰めれば主観にすぎない。裁判はその中での妥協の産物だと思えばいいのか?。

私がものごころついてから思うこと「人は何で生きるか?」この普遍的なテーマは、この古希をすぎた年齢となって、鳥や犬や木々らはそんな屁理屈とは関係なく、ただ生まれ死んでゆくのだと思う。宗教や哲学など、小理屈を並べるのは人間だけで、本来はただこの世に生れ、やがて朽ちて死ぬという事実があるのだけではないだろうか。

人の世に支配するものというよりは、私自身のこころを支配しているものは何か?と問われれば私は「誠実に生きる」という一語に尽きると思っている。今回の裁判でも相手との闘いは自分の誠実さが、裁判官に、提訴する相手にどれだけ通用するかという実験でもあった。

結果から言えばまあ75点かなと思う。自分が健康で生あるときに結審できて本当に良かったと思う。そして私の人生観は変わらないのである。

 

21.11.10

新型コロナウィルスが蔓延し、世界中を震撼させて約2年が経ようとしている。ここにきてやや沈静化の兆しが見えるが、日本を除く諸外国ではまだまだの感があり油断できない状態である。

自分も人と接したり、仕事に追われたりする機会がほとんどなくなった日々を過ごすようになった。偏見のない目で世の中が見られるようになったかと思うが、その価値観がゆるぎないないものと自分では思っていても、他者からみれば古びた意固地な考え方と思われているのかも知れない。

最近知人が長年の社会貢献に従事する職業に携わったのを表彰され祝賀会を開催したが、表彰を祝ってもらう本人がしゃしゃ力になって自ら祝賀会を取り仕切るのを見て、自分があのような見苦しい行為をしてしまったら本当に恥ずかしいと感じた。年をとると他人の欠点はみえても自分の落ち度は気づかな くなっていて誰もそのことを指摘してくれることはないと知るべきと思った。

先日、妻が家庭料理の「とうがらし味噌」を10人分くらい作ったので、友人たちに分けたのだが、そのお返しにK氏から中津攸子氏著「あなたのままでいいのです」という小冊子が送られてきた。とても良い文章だと感じたので・・・・。

その中の一文

「仏教の目的は生きている間に修行し、悟りを開くことです。釈尊の教えによって生きる人は自己以外の他者(神や仏や人)に助けを求めず、己の修行によって悟りに達しようと努めます。自己の責任で人生を歩みます。では悟りとは何でしょうか。修行とは何をすることでしょうか。

悟りとはどんなことがあっても心が平静で優しさと思いやりを持ち、人々に尽くそうと努め、死であろうと世間の荒波であろうと、思いもかけない不幸な出来事との遭遇であろうと恐れるもののない真に自由な境地に生きることです。この境地に達するために釈尊は修行に勤めたのです。」

「右を向きたければ右を向き、左を向きたければ左を向き、見たくなければ眼を閉じて自分らしく生きればいいのです。人は自分のことさえ分からないのですから人が分かってくれなくて当り前です。理解してもらおうでなく理解しようと努めることです。」と。

21.11.01

村の市場横芝光町店の鉄骨の建物を解体して2ケ月が経過した。(ちょうどお盆の時期に解体)約220坪の土地は35年ぶりに更地(さらち)となった。この白紙のキャンバスにどんな絵を描くのか?・・・私の残された人生5年くらい??の楽しみな宿題である。

「国破れて山河あり、城春にして草木深し」の杜甫の詩のごとく草ぼうぼうの姿でも困るなと思い、とりあえず芝生を植えようと思い立つ。土付きの芝を購入して以前植えたことがあるが、たまには芝の種を撒いて一面の芝の公園風にしようと思い、ネットで芝の種を調べた。秋撒きの種で「バミューダグラス」という西洋芝の種を3万5千円ほど取り寄せ、土を馴らし、大きい石を取り除き、鶏糞を軽く撒いて、種まきの段取り、9月中に撒けと指示書にあるので残暑の中、汗をかきながら奮闘して熊手で溝を掘り、種まきを終える。ちょうど台風の時期にあたり以後適度に雨が降り、ほぼ100%発芽した。

将来建設するであろう?建物建設予定地を横4間、縦3間、約12坪ほどは種を撒かず更地のままとした。この更地に至る道として幅2mほどの道路予定地を確保し、建物予定地入り口、左右の植樹用として1間四方、2か所を空けておいた。

昨日この2本の樹木を植樹した。

京都御所の庭園を基本にさせてもらい、「右近の橘、左近の桜」に学習し、右に「シラヌイ(不知火)一名デコポン」左に「ジンダイアケボノ(神代曙)ー桜)の苗木を植樹した。不知火はたまたまコメリで入荷したての苗木一式の中から橘、すなわち柑橘(かんきつ)類として適合する樹を見付けた、998円。

サクラはソメイヨシノは病気に弱いし、樹の寿命も100年程度なので山桜と思っていたが、ネットで調べると最近で出回り始めたエドヒガンとオオシマザクラを交配した「ジンダイアケボノ」という新種が病気に強い山桜系のソメイヨシノの後継としておすすめとの情報を得た。ネットで2年生の1mほどの苗木、1本3000円、送料1500円で取り寄せ、植樹した。

とりあえず、白のキャンバスに芝生と2本の苗木が決まった。1歩ずつ構想を膨らませる。自分のこころの秘密をあたためながら少しずつ世に公開してゆく・・・。

 

21.10.19

昨夜は十三夜、栗観月、栗名月とも呼ぶそうですが、泉の郷の会では例年ですと、里芋を食べながらの飲み会「芋煮会」を行う予定でした。約2年続くコロナ禍で諸行事は自粛しています。ここにきて鎮静化の兆しが見えてきたのでもう少しの我慢かと思われます。曽野綾子が最近出版した「人間の道理」ー河出書房新書の一文から紹介します。 

「耐え抜いた人は、必ず強くなっている。」 病気、受験に失敗すること、失恋、倒産、戦乱に巻き込まれること、肉親との別離、激しい裏切りにあうこと、などを耐え抜いた人というのは、必ず強くなっている。そして不幸が、むしろその人の個人的な資産になって、その人を、強く、静かに、輝かせている。

不幸に負けて愚痴ばかり言っている人に会うと、チャンスを逃してもったいないなあと思う。人間は強く耐えている人を身近に見るだけでも、尊敬の念を覚える。

暗く落ち込んでも当たり前なのに、あの人は明るく生きていると思うだけで惹かれる。あの人のそばにいたい。あの人と仕事をしたい、と思う。それがチャンスを生かしている人の生き方だろう。

 

21.10.10

私の敬愛する白鵬が引退宣言し、真垣親方となるのに、日本相撲協会は、嫌がらせというか、白鵬の欠点をあげつらい、親方株を条件付きでしか与えない、姑息で意地悪なやり方に憤りを感じてきた一人である。この相撲協会の島国根性、視野の狭さ、見識のなさが相撲界を閉塞状態に陥る元凶であることに気づかねばならない。

とほぼ同意見の政経電論 編集長 佐藤尊徳氏の文章を以下紹介します。

【横綱白鵬を正しく評価する大相撲への3つの功績】

横綱白鵬が9月29日に引退届を提出した。膝の状態が悪いということは誰の目にも明らかではあったが7月場所も全勝優勝しており、健在をアピールした後だっただけにそのニュースは驚きをもって伝えられた。ただ、この大横綱の引退については相撲協会やファンとの対立という、功労者には相応しくない切り口とともに伝えられることが非常に多い。確かに白鵬自身に批判されるべき言動が多かったのも事実ではあるが、この先伝説として語り継がれることを考えると疑問が残る。そこで今回は客観的に見た白鵬の実績について振り返りたい

名古屋場所のガッツポーズは「引退」でしかつながらなかった

白鵬引退の噂は、確かに7月の名古屋場所の頃からあった。千秋楽で勝っても負けても引退。

名古屋まで駆けつける家族は、取組前から涙を隠しきれない。そして運命の一番ではカチ上げが照ノ富士の顔面をとらえる。しかし優勢には進まない。動きの速さで主導権を握り、渾身の小手投げ。そしてガッツポーズ。

すべてが異常で、前代未聞の横綱のフィナーレに相応しいものだったように思えた。だが、優勝インタビューではそんな噂があるようなことを匂わせることなく次の目標まで、にこやかに答えていた。白鵬が「引退」を口にすることによってそれまでの流れがすべてつながると思い込んでいた私は拍子抜けしてしまった。

結局あの噂が何だったのかは今となってはわからない。ただ、9月場所は所属する宮城野部屋の力士が新型コロナウイルスに感染した影響で休場せざるを得なかったとはいえ、すでに限界だったと考えると7月場所の千秋楽のあの光景について納得できるものがある。

白鵬は、人の想像を超える言動を取ることで常に議論の対象となった。ラフな相撲のスタイルも、率直な発言も、そしてサービス精神によって行ったことでさえ物議を醸してしまう。われわれの定規では測れない何かがこの大横綱にはあるのだ。

白鵬の引退に際して気になったのは、見ている側が功績を正しく評価できていない点だった。第一に語られるのがトラブルや言動、取り口の話。史上最多の優勝回数を誇り、言動も相撲もすべてが規格外というとんでもない横綱を見てきた割に、好き嫌いという最も原始的な切り口が強く出過ぎているように思えてならない。

父親世代には王・長嶋という存在があった。数字で見れば長嶋茂雄より優秀な選手は存在するが、彼らが語り部となることによって長嶋が野球界に対して果たした役割の大きさ、スーパースターたる所以をわれわれ世代も知ることができた。

そういう意味では、今のままでは白鵬が嫌いな人は白鵬を捻じ曲げて伝えてしまうことになるだろう。同じ時代を歩んできた者として白鵬の果たした役割を整理し、正しく伝える義務があるのではないだろうか。

白鵬は、数字の面で史上最強

まず挙げねばならないのは、数字の面で史上最強力士だということだ。

際立った数字を挙げればキリがない。数字という観点で考えると、年6場所になって以降の白鵬は史上最強力士であると断言できる。どれだけすごいかと言えば、あれほど強かった貴乃花(22回)の倍以上優勝しているのである。

少し意地の悪いファンの方は「強いライバルが居なかった」と指摘するだろうが、これについては3つポイントがある。

まず一つ目は、白鵬が台頭してきたときに土俵を席巻していたのは当時史上最強力士になる可能性のあった朝青龍だったということだ。朝青龍は29歳で引退しているが、25回優勝している。白鵬は引退前直前の朝青龍に7連勝しており、この大横綱を二十代前半にして超えたと言っていいだろう。

二つ目は、外国人力士が数多く入門している時期だったということだ。2000年以降に多くの相撲部屋が外国人力士の獲得に動き、優秀な力士が数多く育った。2021年9月現在では幕内には10人の外国出身力士が居るが、一時は半数の20人ほどが外国出身だった。トップを席巻しかねないという懸念から一部屋1人までという外国人枠を設けたほどだったのである。日本人力士の質の低下という側面はあったかもしれないが、優秀な外国人同士で切磋琢磨してきた時代の頂点に君臨していたのが白鵬だった。

また、三点目に触れておきたいのは朝青龍引退後も決して低レベルではなかったということだ。優勝回数9回の日馬富士と6回の鶴竜は横綱として平均ラインには位置している。むしろほかの時代の横綱よりもレベルが高いといえることは忘れてはならないだろう。

史上最強といえる数字を残し、しかも過去との比較で見ても決してレベルは低くはない。その数字には確かな価値があるのだ。

白鵬は、相撲低迷期を支えた

白鵬が台頭してきた頃は、大相撲が下降線をたどる時代と重なる。朝青龍が巡業を休場中に母国でサッカーに興じていた2007年に白鵬は横綱に昇進している。土俵内外でトラブルを起こす朝青龍に対して品行方正な白鵬という対立構図が生まれ、荒れる朝青龍が相撲界の顔で居座り続けることに“待った”をかけた。仮にこのタイミングで朝青龍だけがクローズアップされ続けていたら、大相撲はさらに大きな批判を受けていたことだろう。

朝青龍が去って以降、白鵬は長い間一人で横綱としての務めを果たした。強い横綱として君臨することによって相撲の価値を高めた。相撲人気の回復には競技としての素晴らしさを伝えられる力士の存在が不可欠で、当時の白鵬は品行の面でも相撲においてもその役割を存分に果たしたといえるのではないかと思う。

白鵬が居たからこそ、その後の人気力士たちの台頭も際立つこととなった。中でも稀勢の里の人気は白鵬との闘いを経て高まっていた。白鵬の強さが稀勢の里を高め、大相撲に物語を生み出し、新しいファンが国技館に足を運んだ。稀勢の里横綱初場所で照ノ富士を下したときのテレビ中継の瞬間最高視聴率は33%で、これに匹敵する数字が出せるスポーツはオリンピックやサッカーワールドカップくらいだ。相撲復活とその後の人気の中心には間違いなく白鵬が居たのである。

白鵬は、相撲の新たな可能性を広げた

白鵬はもともと相手の強さを受け止めるいわゆる「後の先」と呼ばれるスタイルだったのだが、稀勢の里の台頭後これまでに誰も取らなかったようなスタイルで相撲を取るようになった。

カチ上げや張り差しといった戦法を批判する方は多いが、これまでの力士たちが多用してこなかったのはそれだけリスクある取り口だったからだ。カチ上げや張り差しは脇がガラ空きになり、隙を突かれるために白鵬のように大胆には使えなかった。

ただ、白鵬は立ち合いでほぼ完ぺきにこれを決めることにより、相手の動きを止めることに成功した。白鵬はもう引退してしまったが、結局誰も立合いで脇が空くという弱点を突ける者は出てこなかった。白鵬が戦術に取り入れて以降、張り差しとカチ上げを使う力士は前と比べると増えている。

それだけではない。立合いでタイミングを外して出し抜いたり、猫だましで動きを止めたり、土俵際で仕切って立合いの強烈な当たりを回避したりと、誰もが一度は思いつくかもしれないがリスク故に実行に移してこなかったような戦術を自らの相撲に取り入れてきた。

こうした取り口は今まで小兵や格下の力士に許されてきた部分はあるが、上位の力士、特に横綱が実行に移すことはそれほど無かった。横綱には横綱が取るべき相撲と美学があるとされてきたからだ。白鵬がこうした相撲を取るとファンはともかく親方や元力士、そして横綱審議委員会から苦言を呈されてきた。

白鵬の取り口に対して好き嫌いはあると思う。私自身本来は王道の横綱相撲が好きなので、白鵬が普通に勝てるような相手に対してラフに動きを止める相撲を観ると残念に思ったのも事実だ。そして、横綱が取るべきとされる相撲の美しさが大相撲人気を支えてきたという面もあるとは思う。 ただ、白鵬の取り口が一つの契機となってさまざまな選択肢を力士たちが取るようになったとすれば、それは相撲が競技として進化を遂げることにもつながるだろう。白鵬の取り口が極めて有効な戦術だったとすれば、本来勝てないようなタイプの力士でも勝てるようになる可能性はあるし、すでに強い力士が勝つための選択肢をさらに増やすこともできる。

相撲の人気を支えてきた強い力士はこれまでも多く存在してきた。ただ、スポーツとしての相撲を技術や戦略の面から変えてしまった力士がほかに居るかと考えると少なくとも私には思い浮かばない。白鵬は人気低迷から相撲を救ったという意味で短期的な成果を残し、そして戦略面での問題提起がこれからの相撲を導くことになれれば長期的な成果を残すことになるだろう。 確かにすべてを賞賛することができない力士だったことは間違いない。そして、是非ではなく好き嫌いという側面で見ても真っ二つに別れる力士だったことも間違いない。それほど際立った存在だったということだ。ちなみに白鵬のことを嫌いだという人は居ても、弱いという人は皆無だ。強過ぎたことが客観性を奪い、評価を難しくしているといえるだろう。

改めて白鵬という力士を振り返るとその功績の大きさに気づかされる。すべてを許容することはできないし、好き嫌いはあってもよいが、同じ時代を生きてきた者として、これだけの大力士の残した功績には敬意を払うべきではないかと思うのだ。 白鵬を見られたことは好みを超えて財産になる。そう思える日が将来きっと来るだろう。

 

21.10.03

盟友 藤城吉董宮司が神社庁より長年の勤務が評価され神職身分浄階一級の職位が与えられた。それを祝して10月3日成田ビューホテルにて約60名にて祝賀の宴が開催される。それを記念してわたしから一言。

 

神職身分浄階一級昇進を祝賀す 

この度は 神職身分浄階一級昇進 神社庁より表彰の栄に輝きましたこと、こころよりお祝い申し上げます。

想えば青春の日々、お互いに夢を乗せてそれぞれの道に進み、志半ばでふるさとの地に帰還、家を継ぐという宿命の中に人生の方向を定めました。結婚、子供たちの成長、そして親の介護、見送りという過程を歩みました。 その間、いつもそばで支えたのが妻である洋子さん、私にとっては洋美です。あらためて敬意と感謝の意を伝えたいと思います。

 また宿命と思えた、宮司さんにとっての神職、私にとっての食品小売業、『この道より他に歩むほかなし』と退路を断ったときからそれぞれの分野で社会の中で自分の果たさなければならない使命が沸き起こったように思います。

 宮司さんが産土である東陽、白浜地区を中心とする氏子らの安寧と繁栄を願い、日々熊野の社を守り、祈り続けた功績がこのたびの栄誉となったのだと思います。こころからご苦労様、おめでとうと伝えたいと思います。

 これからは健康に留意され人生の最終章として神社のさらなる内容の充実、そして次の世代へのバトンタッチが円滑に進められるようお祈りします。

 御礼とお祝いの気持ちをこめて。     藤城吉雄

令和3年10月3日

 

21.09.06

私が高校1年の時開催された東京オリンピック、日本が高度成長に向かい国中が沸き立っていた時代でもあった。それから57年ぶりに開催された東京オリンピックはコロナ禍という世界の非常事態の中でのほぼ無観客という前代未聞の開催であった。

昨日でパラリンピックも無事に閉幕した。コロナの蔓延による中断、休止もなく何とか選手も日頃の練習の成果を存分に発揮することができたのではないだろうか。

パラリンピックで今回初めて友人越川満さんから次の言葉を知ったのです。

世界で初めて障害者による競技大会を主催し、「障害者スポーツの父」と呼ばれるユダヤ系ドイツ人の医師ルードヴィッヒ・グットマン卿の言葉「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ。」と・・・。

テレビ観戦で様々な競技でのメダルを獲得、その感慨を述べる言葉に感動した。そのひとつに、競泳女子背泳ぎで銀メダルを獲得した14歳の山田美幸選手、両方の腕がなく、両脚の長さが違う。キック力で前に進むが、足の長さが異なるので方向が定まらない。それを微妙に頭の向きで修正しながら今回史上最年少のメダル獲得である。すごいことだと思う。

われわれは父母から受け継いだ五体満足の体、これを当たり前と思い、日々何の苦労もなく、また感謝することもなく生活を営んでいる。しかも、もっとお金が欲しい、自由な時間が欲しい、仕事がきつい、政治が悪い・・・などなど愚痴を言い、不平をもらしてばかりいる。

「失われたもの、現在自分にないものをあげつらい、天から授けられた能力、才能を自ら掘り起こし、伸ばす努力を本気でしただろうか?」・・・自分自身を含め、健常者である人たちこそ、グッドマンの言う残っているものを最大限生かせという言葉を投げかけなけれならないのではないか?

親鸞の有名な言葉に善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」善人を健常者、悪人を障碍者に置き換えてみれば、障碍者、悪人ほど、仏の道に近い、自分の至らない宿命を全部肯定し、受け入れて、救われる道を一心不乱に探し求める修行の姿勢に対して阿弥陀如来は救いの手を差し伸べてくれるのだという。

パラリンピックの精神、ルードヴィッヒ・グットマン卿の言葉「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ。」この美しい言葉を今後も私の生き方の指針としたい。

 

21.08.11

友人で先輩でもある匝瑳市内山の越川さんに、ホームページを作りたいから手伝って・・・と依頼があり、とりあえず本日無料で作れ、管理も無料でおこなえるJIMDOというフリーのソフトを使って、ホームページを開設した。

その文章のトップに越川さんが好んで使い、私も大好きな言葉、道元禅師「正法眼蔵」の中にある一言を巻頭に掲げました。(私の独断)

      「じみとくどせんどた」  という言葉 ネットで大変良い解説があったので紹介します。

自未得度先度他(じみとくどせんどた)は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べていらっしゃる言葉だ。

自分は彼岸にいかなくても他の人をまずは彼岸に渡してあげなさい。

自分が悟ってもいないのに、他人を彼岸に渡すことはできなかもしれないと思うかもしれないが、その思いを起こすことが大切なのだという。

また自分はそろそろ悟って彼岸にも行けるようにもなっても、自分は彼岸には行かず、他人を彼岸に渡してあげることが大切なのであるともおっしゃっている。

このような自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こすこと、それが悟りそのものであるともおっしゃっている。

自分よりも人々の幸せを願うことができるようになれば、それは悟りの世界でもあり、すばらしいことなのである。 

優しさとは優越感だと言い切った先生がいらしたが、多くの優しさは優越感とか、ゆとりがあってのことだと思う。

でも、そうではない優しさもある。

本当に心根が優しくて、困っている人がいれば助けずにはおれない人がいる。

助けることによって、自分がぼろぼろになっても、助けずにはおれない人がいるものだ。 

私は、15年ほどまえ、神田川沿いを1時間歩いて通勤していたことがある。

神田川と中央線が交差するところに小さな陸橋があったのだが、その下にダンボールを寝床にしたホームレスがいた。

妙に顔が色白く、澄んだ目をしていたので、ただものではないと思っていたのだが、案の定、見るからにヤクザとわかる男が「オジキ、頼むからアパートかマンションに住んでくれ。お金は何とかする・・・」

どうやら、最近刑務所を出所して、以前の組に帰ることもせず、ホームレスの生活を送っているようであった。

ある日そんなことは知らない、近所のおばちゃんが、「あんた、ごはん食べているの。大丈夫・・・」とダンボールの中の男に声をかけているのである。

そんなに裕福には見えない、ただのおばちゃんが、本当に心配して男に声をかけているのである。私は、その声を聞きながら通りすぎたのだが、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いだった。

こんなおばちゃんがいる限りは、人間も捨てたものではない。

 

自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思う。

自分がぼろぼろになってまで、他人の面倒は見れないと思うかもしれないが、本当に、自未得度先度他(じみとくどせんどた)の気持ちなれたら、その人自身も幸せだと思う。

決してぼろぼろになったりはしない。

その人のまわりに素敵な世界が生まれるに違いない。

決して、ぼろぼろにはならない。

きずつくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思う。

自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうか。 

そのような人が、一人二人と増えていかなければならない。

 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 

ちなみに越川さんのホームページは

https://koshikawa917.jimdofree.com

です。

 

 

21.07.04

6月23日(水)順天堂医大での5年前から手術、定期健診を行ってきた放射線科 笹井先生の診断を受ける。下の写真は5年前 手術前の内視鏡によるわたしのガンに侵された食道の写真である。他の臓器には浸潤してはいなかったが、食道が塞がるほど大きくなったガン細胞が映し出されている。がん細胞が食道の一番外側の壁まで侵して大動脈にへばりついていた。とてもすぐ手術するのは不可能で、(このため旭中央病院では手術不可ということで順天堂に回された)まず、強い抗がん剤を投与し、大動脈と食道とを切り離すまでガン細胞を小さくする治療を行った。3週間ほど地獄の苦しみの抗がん剤を点滴による投与を経て入院から40日後、10時間の大変(術後、担当の梶山医師が説明した)な手術で、どうにか食道を摘出した。

この日、笹井先生いわく「藤城さんは本当にお運がよかった!当時手術を担当した梶山先生は食道外科の医師として日本では抜群の神の手と言ってもよいほどの優れた医師に執刀してもらえたのだから・・・」との説明があった。「食道摘出の手術をした人のほとんどは胃をのど元につなぐのにうまくゆかず、食べ物がのどにつかえる例が頻繁にある・・・」「CTの写真を見てガンが転移した様子もなく他の臓器もきれいなので5年経過で定期健診終了としましょう。おめでとうございます。」という有難い言葉をいただいた。

術後5年生存率50%と言われる食道ガン、しかも最も大きく育った手術困難なガン細胞、そこを乗り越え、今こうして元気なからだでいられること、ありがたく、この健康を無駄にせず、これから世の中のお役に立てる仕事、自分の魂を純化、浄めるこころがけに一歩をふみ出そうと思う。

 

21.06.30

人は困ったり、苦難に出くわしたとき、神仏に頼むということがある。

自己の力の限りを尽くしてもどうにもならないと感じたとき、どう対処すればよいのか?最近S氏から定期的に送られてくる、廣池学園、モラロジー研究所(廣池千九郎氏の主唱する)の一説。

「人間には誰にでも運命というものがあって、良い運命の人は何をしてもうまくいくが、運命の悪い人は、何をやってもうまくいかぬ。だから、人間は何をおいてもまず運命の良い人にならなければつまらん。人間の運命は、その人の心づかいと行い、すなわち品性によって、よくもなれば悪くもなる。貧しい家、あるいは運命の悪い家に生まれた人でも、その人のこころ掛けによっては良くもなり、立派な家柄に生れた人でも、その人の精神作用が悪ければ没落する。どういう心づかいや行いをすれば運命がよくなるのか「それを教えるのがモラロジーです」

人間の運命は、注意するとか慎重に考えて処理するとか、神仏を礼拝するとか、そのくらいのことにて改まるものではありません。必ずや最高道徳によって人心の開発もしくは救済に協力して徳を積むよりほかに、人間の運命を開く真の方法はありませぬ。良い心づかいと行動の累積によって運命は変わる。心づかいと運命は連動している。

(私見)なぜ人の世界に哲学と宗教が存在するのか?(人は何で生きるのか?)まさに心づかいと行動と運命を極めることに尽きるのではないだろうか。

21.06.13

 「想いは必ず遂げられる」・・・今回この言葉の重さをひしと感じた。

ちょうど1か月前、私が畑の作業を終え、軽トラックで自宅に帰ったその時、そごうデパートの外商担当M氏と門の前で居合わせた。M氏は東京 京橋の画商 U氏を連れ、棟方志功の版画数点を持参、「ぜひ一度御覧いただきたい!」という。私は畑の作業衣のままで汗ばんでいた状態、「日を改めてお願いしたい。」と答えると、「ではカタログ案内を置いてきます。後日あたらめて伺います。」との返事でその場は別れた。

その夜カタログを眺めていると、ゴッホにあこがれて上京した棟方志功が絵画から彫刻へと表現方法を変換し始めた初期の作品、「釈迦如来の柵」菩薩を両脇に中央に釈迦如来を配した版画である。価格もすこし高いと思ったが、自分の手に入る範囲である。一瞬「欲しい!」と思ったが、画商の提示する価格を伺ってから考えようと思い、外商M氏の電話で翌週に我が家で画商と志功の作品、数点を持参と約した。

考えてみれば、棟方志功との出会いは私が大学1年のとき、今は亡き恩師岡垣勇先生の読書指導で、国文学ならびに批評家として静かなブームを呼んでいた「保田與重郎」の書による。保田氏は文学に関しては、万葉集、本居宣長古事記伝を正統の流れと捉え、川端康成、三島由紀夫らと親交篤く、陶芸、書画骨董にも含蓄深く、柳宗悦、 河井寛次郎らとも交流があった。そこに棟方志功も青森から出て来た異才の版画家として注目され始めていたのである。私は保田與重郎の「日本の橋」「後鳥羽院」などの評論を熟読し、氏の流麗なやまと言葉にぞっこん惚れこんだものである。妻と結婚後、修学院離宮など京都を旅する機会があり、その折、あらかじめ保田氏にお手紙を差し上げ、2時間ほど氏のお宅にうかがい、形骸に接する機会を得た。

今考えると、戦後の一時期、日本の文化、芸術の第一級の人物が寄り集まる京都嵯峨野の邸宅、そこに千葉の田舎の肉屋の一商人がづかづかとお伺いしたのだから恥ずかしいやら、失礼やら・・・しかしよくぞ氏は私を招きいれてくれたこと感謝感激である。

棟方志功はこの釈迦如来の柵から数年後、かの有名な「釈迦十大弟子」がサンパウロ ビエンナーレ展で金賞、一躍世界の棟方としての地位を築いてゆく。

私は30才前後のころ、たまたま市ヶ谷界隈を妻と散策していた時、ある小さな画廊のケースに棟方志功の版画に彩色をほどこした50cmくらいの女人像の小品が私の目に飛び込んできた。値段をみると150万円とある。しばし佇みこの絵画を手に入れたいと強く思った。しかし、当時の私には手の届くねだんではなかった。「いつか、棟方志功の作品を自分のものとして鑑賞したい。」・・・その想いだけが強く残った。

爾来、45年の歳月が流れ、私も創業した会社も譲渡し、妻と二人の年金生活、しかもコロナ禍で旅行もできず、こころを豊かにする出来事に飢えを感じていた。そこに今回の志功の本物の版画が目の前にある。

ニューヨーク、メトロポリタン美術館にあるゴッホの部屋にはゴッホの作品が数点ある。私はそこを訪れたとき、ゴッホの絵の前で身動きができなくなってしまった。今回、画商のU氏が棟方志功の作品を4点、私の前で公開してくれた。ゴッホの絵を前にしたときと同じ感動である。

私は先にカタログでみてあった「釈迦如来の柵」を購入することを約し、その時展示してくれた「女人鷹の柵」がすっかり気に入ってしまった。でも予算オーバーだったのでU氏にこの作品はしばし考えさせてください。と言ってその場は別れた。

数日たってもあの「女人鷹の柵」が脳裏に残像として残り消えない。「やはりあの絵は私が手元に置くようにこの世に現れたのだ」と思うようになった。

U氏より念願かなって棟方志功の自分にとっての最高のお気に入り2点の作品を手にした。

これからの人生志功さんとともに歩もう、こんな素敵な人生があるだろうか?・・・

この冒頭で言った「想う」こと「念ずる」ことの大切さをひしと思う。

 

21.05.06

 日々の暮らしの中で、偶然の組み合わせや、天恵と思われる出来事を経験することがたまにある。今回の出会いと展開もまさにそのひとつの出来事である。

4月30日(金)の午後3時ころ、私は泉の郷の東側の竹やぶ、荒れ果てた竹林3坪ほどを竹や雑木を刈り取り整備し、そこに椎の木をくりぬいた日本ミツバチの巣箱を仕掛ける作業を行っていました。そこに、たまたま軽のライトバンが駐車し、上下の作業衣を着た一見電気工事業者のような人が下りてきて、私の近くを行き来し、写真をとったり、竹林の様子をみたりしていました。私から声をかけ、何かお探しですか?・・・と尋ねると、

「この近くの遊休地の荒れた竹林を調査し、写真に収めて送って欲しいと地主さんから依頼され、公図を見ながら、実際の当該土地を確認しているところです。」

ということで、公図を私に示してくれ、お互いが確認したところ、私が作業している土地の東となり、熊野神社の西となりの山林であることが確認できた。

この土地は6〜7年前、熊野神社の恒例の山刈りを行っている折、神社の社有地として駐車場も今ひとつ狭いし、この土地も神社の社有地として手にはいるといいね。この地主さんと交渉してみてはどうですか?と私から宮司さんに提案したことのあった土地であった。そのことをとっさに思い出し、作業衣の方と名刺の交換をし、この地主さんに神社の土地としてなにがしかの価格で譲り受けることはできないだろうか?ぜひその旨を地主さんに伝えてもらいたいとお願いしてみました。その作業衣のWさんは、匝瑳市の人材派遣センターの方で、地主さんは匝瑳市その他にこうした土地を持っている方で、私どもは他の土地の草刈りや管理を行っていて、この土地の荒れた竹林の写真撮りと整備の見積り書を依頼され調査に来たところだと言う。この神社の宮司は私の家の葬儀を神葬で行うのにお願いしたりしてよく知っているよ・・・という返事であった。W氏は匝瑳市の事務所にもどり、地主がS氏であること、S氏と連絡をとるための携帯番号も教えてくれた。

翌5月1日(土)午前6時30分 毎月の第1と第3の土曜日、熊野神社の境内清掃をこの4年間、総代長はじめ氏子関係者10数名で行っている。この朝も30分ほどでいつも通りの掃き掃除を終え、宮司と掃除の皆さんに、昨日の遊休山林の話をした。宮司、総代長、社友会会長も「それは大変よい話だ。隣接地は手に入れたに越したことはない。メンバーにいる不動産業のS氏と一緒にすすめてくれ。」という回答であった。

私はわかりましたと答え、今回の話は商売上で交渉するより、氏子からの素直な気持ちを相手に伝えた方がよいと思うので最初の交渉は素人の私に任せてもらえないだろうか?と提言し、受け入れてもらいこの場は解散した。

その日、午前10時半ころ、私が神社近くの畑の草取りをしていたところ、携帯電話が鳴り、受信したところ

「東京のSと申します。昨日匝瑳市のW氏から電話をいただきました。私の土地を神社で入手したいという希望だと伺いました。この土地は父が手に入れ4年前に父没後、相続でわたし名義になったものです。数年前一度現地を訪れたこともあります。もしよろしければこの土地を神社に無償譲渡すなわち寄付したいと思っています。夕刻自宅に戻ったら図面その他をメールで送信します。」

というのである。電話の様子では律儀な40才から50前後の方という印象であった。「それはありがたいお話です。ちょうど今朝、宮司、神社関係の方にSさん所有の山林の話と譲渡に向けすすめるよう回答を得たばかりです。譲渡に際しての登記費用その他経費はこちらで負担しますので、ぜひこの話を実現させていただきたい。神社関係者皆さんも喜んでくれること間違いなしと思います。ありがとうございます。今後神社関係の了解をとるために、無償譲渡の内容を文書にして送っていただきたい。今後ともよろしく。」とお願いし、会話を終えた。

こちらから電話するタイミングを考えていたが、こんなに早く先方から僥倖の電話をいただけるなんて・・・思わず偉大なる天に深く感謝したのであった。「僥倖」ぎょうこう・・・思いがけない幸せ、この言葉がまさに当てはまるありがたい瞬間であった。

その夜普段なら床にはいっているが、テレビを見ながらメールを確認しているとPM9:50 Sさんからメールがはいった。

無償譲渡を約する内容文と各種図面関係を添付ファイルで送ったとの知らせである。当座最低限、不動産移転譲渡に関する書類はほぼ整ったと言ってよい。一通り書類を拝見したのち、PM11:00 私は下記返信メールを送った。

鈴木様

このたび、若梅氏のご縁で 急展開の 佳いお話をいただき ありがたく 感謝申し上げます。

毎月 第一と 第三土曜日の 午前6:30〜  熊野神社境内清掃を 宮司 神社総代代表 他 総代等10数名で 行っております。 そこで今回の話を提案したところ

宮司 総代代表も 「是非 隣接した土地が入手できれば 本当にありがたい。藤城の方で話をすすめてくれ」 という 結論でした。

午前10時ころ 鈴木様からお電話をいただき  今回の 無償提供(寄附)の意向を お話いただき 本当にうれしく存じます。 

今回の書類の測量図 申請人に 藤城 博とあるのは 私の今は亡き 父です。 これも何かのご縁かと思います。

案内図、確約書、全部事項証明書(登記簿)、測量図  確かに 受信しました。

 宮司 神社関係者に報告し、以後 登記 受理まで 円滑にすすめたいと思います。

 まずは 御礼まで。

明けて2日(日)朝8時 宮司 総代長に昨夜の件を伝え、PM2:00 旧村市本部室 事務所に集合して細部確認報告ということになり、宮司、総代長、社友会会長、S不動産、私の5名集合、案内図、確約書、全部事項証明書(登記簿)、測量図と今回の経緯を説明、了解を得て、5月9日熊野神社総代会の承認を得て、移転登記に進む方向で合意した。

まずはめでたし、めでたしでわずか3日間で、300坪の大切な地所の移転登記に関しての物語が完成した。世の中で目の前を通り過ぎる事象は億万の数がある。人の出会いも含め、その一瞬の出会いで運命が変わり、自分の生き方が変わることがある。それは過去からの因果応報ということもあるだろうし、先祖からの目に見えない糸に繋がれているということもある。自分の潜在意識にあったものが外部のちょっとした変化をきっかけに触媒作用で化学反応を起こすということもある。

今回のできごとは、双方、まったく無心の状況でなされた出来事であり、そこには目に見えぬサムシング・グレイト・・・偉大な天のはからいがあったのだろうと私なりに解釈している。ありがとうございます。

 

21.04.09

 【横芝光町へのご意見・ご要望】

 佐藤町長様

泉の郷の会 藤城吉雄です。

数十日前  栗山川 堤防 旧光町側 ふれあい橋から下流へ 約500m 砂利道の穴ぼこ 修復をお願いしました。栗山川は2級河川 管轄は県の土木なので 町は直接予算計上できない・・・と いつも 素っ気ない返事ばかりが帰ってきました。今回 4月8日 ローダーが入り 平らに固める作業を行ってくれ 散歩道としても快適になりました。

多古町の 道の駅周辺は 栗山川堤防が本当によく整備されて わざわざ 車で犬の散歩に行っています。横芝光町も あそこまでお金をかけなくとも 堤防沿いの草刈りと 砂利道の整備・・・できれば簡易舗装まで 行ってもらいたい。

私個人として 川沿いに 200本のソメイヨシノの 手入れと 下草刈りを行っています。ソメイヨシノは 人間の手で 無駄な枝の間伐 肥しを施す 下草刈りと クズなどの つたを除く  こうした 地道な手入れが必要です。

例えば ソメイヨシノで有名な 青森 弘前城公園 すべて 徹底した管理の元 美しい花を咲かせています。ほっておいて 花は咲きません。次代に 豊かなふるさとを 伝え残す・・・ 「よりどころ」みたいな そんなところに お金をかけなくとも アイディアさえあれば 本当に豊かなものを 伝えることができると私は思います。

今回はすばやい対応で 要望に応えてくれたこと ありがたく 感謝します。 

藤城吉雄

21.03.10

順天堂医院 B棟16階 食堂胃外科病棟  看護師長ならびに看護師皆さま

私 2016年5月31日より7月30日まで入院、手術でお世話になった藤城吉雄と申します。

病室は南に面した個室 8620号室でした。

病名は食道ガン、担当医師が梶山美明先生、看護師長が渡辺氏でした。

ステージ4で、入院後強い抗がん剤の点滴後、7月11日手術、8日間ICUで退院後2か月、放射線治療と抗がん剤治療で病院通いでした。

優秀な医師と、親切、ていねいな看護師さんの手当のおかげで、今年で満5年が経過しました。おかげ様で今のところ転移、再発もなく、コロナ禍の折でも元気に過ごしております。

病室にいた時、木村、上野看護師らのすすめもあって、1日1万歩の歩行を行っていました、現在は早朝5時半から6時半 1時間のウォ−キングを愛犬ととも

に行っています。

当時のスタッフは医師、梶山先生を中心に、富田、吉野、橋口、斎田先生、

看護師は木村、上野さんには大変お世話になり、久我、井上、峯村、服部、松村、茂垣さんらには本当によくしてもらい、金子事務さんにもお世話になりました。

5年後生存率50%の病気と言われてますが、今のところすべて問題なく、おだやかに過ごしています。

本日も定期健診終了後 お会いしてあいさつしたいのですが、コロナの問題があるので、お手紙で失礼します。皆さんもお元気でお過ごし下さい。

      2021年3月10日

21.02.17

先日 2月7日 満74才の誕生日を迎えた。LINEに「誕生日おめでとう」の祝いの言葉が送られてきた。妻と子供たち、嫁さん、孫たちと、数名の友人からである。この年になってもこうして祝ってくれる人がいることがありがたい。毎朝、新聞の朝刊の死亡欄を見て、年齢と死因を読むのだが、70才前後で、心臓病、ガン、循環器病などでの死亡が多い。高齢化社会到来、長寿国日本と言っても、われわれの年代になればいつあの世からお呼びがかかっても可笑しくはないのだ。

今はコロナ禍による緊急事態宣言中だから、外出や、会合への参加は極力控えている。毎日手帳に、朝の散歩の歩数、時間、距離を記録、最低1時間は歩くのを目安とし、血圧、脈拍数、体温を記録している。5年前に喫煙をやめてから血圧は下は75、上は125と正常値、体重は50kgと痩せたままだが、これが今の自分の健康状態である。

最近、ネットでシャツ、ズボンを購入している。ズボンはウェスト76cm、股下72cm、ワイシャツ 首回り39cm、袖丈80cmと記憶し、何度か失敗してこれで注文をだして満足している。今までこんな数字、意識したこともなかった。

お店を経営していた時は四方に注意を張り巡らし、日々、右か左か、前に進むか、1歩退くか・・・決断するのが日常であった。

今はその日に行う予定をメモし、その内容たるや、妻とショッピング、畑などの作業、たまの病院通い、人と会ったことぐらいが出来事と言えばそのくらい、お金の出費は5000円以上はメモしておく。

日々これ好日、これにまさる安堵としあわせはない。何よりも、健康、そして妻の美味しい食事、これがしみじみありがたいと思う。

21.01.26

新しい年を迎えたと思ったらあっという間に1か月が過ぎようとしている。1月7日に緊急事態宣言第2弾が発令され、自粛の生活、行動を強いられている。

本日、妻の70歳の誕生日、古希を迎える。夫婦そろって70歳の大台を無事通過できること、感謝である。昭和49年の結婚だから早や46年が経過、4年前に私が食道がん、妻が大動脈解離と二人そろって死の淵を通り抜けてきた。今、コロナ禍で世は騒然としているがこれもワクチン投与と時間がやがて解決してくれるであろう。これからは世の片隅で静かに暮らしてゆこう。

毎日、コロナにコロナに関するニュースで報道は埋め尽くされている。経済と規制とのバランスに終始する議論も大切だが、一方では芸術、絵画、美術、演劇、音楽などこころ豊かにする報道も積極的に展開してもらいたいものだ。

また、老人はコロナにかかると死亡率が高い、感染しやすいと迷惑な存在視されてはいるが、年齢を重ねただけ人生の経験が豊かであることを評価してくれる報道や番組も欲しいものである。

ニュース解説者の報道を見ていると、なんと月並みで、平均的な受け答え、無難な回答にうんざり・・・さすが世相の神髄を突いている報道に出会いたいものである。

2021年

20.12.19

コロナの第3波が蔓延のニュースが流れる中、友人らと長野県白骨温泉一泊の旅を楽しんだ。政府が地方経済活性化案として打ち出した@GoToトラベルとAGoToクーポンの特典を利用しての旅である。今回は旅行者を通じて、宿屋だけを手配してもらったので、@は宿泊代の35%の補助金額として宿代から天引きAは宿泊代の約15%を地域商品券として宿屋で受取り、指定の店舗で利用可能という仕組みである。

 海抜1400mのこの温泉は松本市から車で約1時間半、急な坂道を登ったところにあるので、積雪の際はチェーンは必要とのことであった。幸い、宿泊した夜、うっすらと雪が降っただけで交通に問題はなかった。温泉は硫黄質の白濁温泉、食事は信州の地場の肉、魚、野菜を使った一級の懐石料理、静かで落ち着いたよい宿であった。「ゑびすや」という白船グランドホテルの別館、金土日の週3日のみ営業というぜいたくな宿である。

 私のワゴン車で7人同乗、往復800km、コロナの影響もあり道路はスムーズな流れであった。仲間のひとりK氏が今回発行した「泉の郷だより3号」に原稿を寄せてくれたのであるが、その表題は「自未得度先度侘(じみとくどせんどた)」ー道元禅師・・・自分より人々の幸せを願う心の意。その一文の末尾3行、

今日為すべき事をきちんと為し、自分より人々の幸せを願い、一日一善を心掛けております」

がどんなにすばらしい生き方なのかを彼に伝えました。人生の晩年をどう過ごすか?どういう心構えで日々を過ごすか?・・・この3行に集約されていると私は観じたのである。

20.11.27

泉の郷だより第3号へ掲載しました。人生70年生きてきた経験値から出てきた言葉です。

      子と孫へ贈る言葉十三か条   

一  明るく元気に! 

 あと先迷うな、今日一日を精一杯生きよ! 

三  「こんにちは」 あいさつは大きな声で! 

 「ありがとう」 感謝のこころを忘れずに! 

五 百考えるより まず一歩をふみ出す勇気を! 

六 素直な心で  人の話をよく聞け! 

七 夢と希望と理想を持て! 

八 いつも身のまわりを きちんと整えて! 

九 神仏をうやまい、手をあわせよう! 

十 お世話になった人への恩を忘れるな! 

十一 世間に媚びるな 自主独立をつらぬけ! 

十二 たえず世の中のお役に立つことを考えよ! 

十三 おれがやらずに誰がやる  みずから進んで!

20.11.14

最近送られてくる案内状や招待状のまえがきにはやたらコスモウィルスの感染に関して、現状を憂い、延期やキャンセル、また開催にあたり予防対策など、本文の要件の前にクドクドと言い訳がましい前書きが多いように思う。

戦国武将、本多重次が留守宅の妻に宛てた手紙に「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のたった十八文字の手紙が銘文として語り継がれている。われわれはともすれば相手に分かりやすくというおもいやりか?説明がくどくなりがちである。しかし、本当の良い文章とは簡にして要を得た文がもっとも優れていることをよくよく注意せねばと思うのである。

.20.10.15

約4年前、私が食道がん、妻が大動脈解離で同時に緊急入院、手術という事態が発生し、それから治療、養生、定期検診を行い、仕事の第一線から退き、静かに暮らしている。新聞の死亡記事欄を見ると、結構70歳前にガンや心臓病などで亡くなる方も多い。自分らがこうしてとにかく無事一日一日を過ごせることがありがたいと思う。

昨年の今頃、伊勢神宮、熊野三山、高野山奥の院をたずねる旅をした。私は特にに信仰心が篤いわけではないが、事業経営をしていればいざぎりぎりのところで厳しい状況に置かれことは何回かある。そんなとき、「サムシング グレイト」人智の及ばぬ見えざる力に頼む・・・ということがある。我が家の仏壇、神棚、そして地元の産土様(うぶすなさま)である熊野神社に手を合わせて、困難を乗り越えるまではゆかないが、お祈りして何とかやってこられた。

病気をするまで日々の生活でストレスというものが具体的にどういうものであるか理解できなかった。自分が選んで進んできた職業と、その中で生ずるお金の苦労、雇っている人の問題、会社の将来、悩みは尽きないが、それは生きていくうえで当然ふりかかるものであり、自力で乗り越えなければならない課題だと思ってきた。自分自身はそうした問題に正面から取り組み、難題に押しつぶされてはならないと自分を励ましてやってきた。朝仏前に線香をお供えし、お茶をあげて「ネバー ギブアップ」(どんなことがあっても 決してへこたれないぞ!)を日々実践してきた。

先週妻が10月6日入院、7日手術、本日15日無事退院、下腹部大動脈瑠切開及び、人口血管の挿入を終えた。3回目の手術である。私も妻も約70年の命をいただき小さな小売店からそれなりに努力を重ね多少の成果を生み出すこともできた。今考えるとその間の身体に受けた緊張と疲労の蓄積がこうした病気の一因であったのだろうと思う。やはりストレスも影響していたのだろう。

私が16歳の時、高校の恩師岡垣勇先生から暗示を受けた「人は何で生きるか?」の重要な課題は今なお自分に突き付けられた避けては通れない人生のテーマである。人生74年歩んできて最近思うこと。

「人生はその人のこころの在りようによって決定される」

日々、どういう思いで1日を過ごすか、自分の世の中と対自然と人間にどういう対応をしてゆこうとしているのか・・・・? その集積の結果が自分の歩いてきて道のりなのだと思う。

これからの人生で自分にとって最も大切なこと 「自分のこころのありよう」をいつも見つめ直し、栄養分を注いで、磨きをかけてゆくことに集中できたらよいかなと、今考えている。

 

20.09.18

コロナウィルスの感染が蔓延して約5か月、やや下火になったとはいえ、いまだ収束のメドは立たない。この間 家での自粛、ヒトとの接触を控える行動様式は相変わらず、各種イベント、旅行、集会等はほとんど取りやめである。

先週、ネットで入場券を入手し、上野西洋美術館で開催されているロンドン、ナショナルギャラリーの展示を鑑賞に出かけた。妻か友人を誘おうと思ったが、コロナの感染防止もあって、一人での鑑賞である。この自粛期間で思うことは、ネットやテレビでで世界で起こる事象は知ることができるが、心にうるおいを与えてくれるものに対しての飢えを感じていた。たとえば、旅行、音楽、絵画鑑賞などである。「人はパンのみに生くるにあらず」と言うが肉体と精神、日常と非日常、文明と文化、健康な身体を作ると同時に健全な精神の涵養こそ人間が本能的に求めるものである。

上野西洋美術館に早朝、家を出て10時に到着、チケットの予約入場時刻が11時半だったので、それまでの間、同館内の常設館を見学可能だという案内嬢からの説明、そこにはすばらしい中世から近代に至る西欧のキリスト関係の絵画が展示されていた。特に松方コレクションの展示室があって、そこにヴィンセント・ファン、ゴッホの「ばら」の花の絵があった。ゴッホは1890年に37歳で自殺するが、その1年前アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミサン=ポール=ド=モーゾール修道院で描いた作品である。その強烈な絵の具と筆使い、ゴッホの魂の叫びにしばし、圧倒され、釘づけにされた。もちろん、その後、目的の「ひまわり」をゆっくりと鑑賞することができた。

久しぶりにこころが安らかに、豊かに満たされた満足感を味わったのである。

 

20.08.15

戦後75回目の終戦記念日を迎えて

昭和、平成、令和と時が流れ、今年で先の大戦から75年の歳月が過ぎた。日本という国家が成立して以来、対外国との戦いで敗れたというかつてない出来事、この事実に目をそむけることなく、未来永劫にわたり日本という国家と民族の安全と平和を守り続けなければと思う。

 

田辺聖子著 「欲しがりません勝つまでは」を読んで 戦争を考える     藤城吉雄 

私は昭和二十二年二月生まれである。父が中国の戦地に赴き、終戦後無事帰国して私が誕生した代表的団塊の世代である。従って戦前、戦中の教育、社会がどういうものであったのかはよくわからないのです。以下田辺聖子著「欲しがりません 勝つまでは」を紹介しながら自分の考えをまとめてみました。

 著者は昭和三年生まれ、大阪の写真館の娘で本が大好き、手当たり次第に歴史、文学、小説を読破し、女学校にすすんで十七歳で終戦を迎える。多感な少女が小説を書きながら戦時下勤労動員に励み終戦近くの昭和二十年五月

「あんなに強かったドイツも降伏し。イタリーのムッソリーニも殺され、三国同盟で残るのは日本だけ、でも日本は断固、降伏なんかしないのだ。日本中、焦土になって一木一草もなくなっても、最後の一人までたたかうのだ。」

 戦火の中を命からがら生き延びやがて終戦を迎え終戦の詔勅を聞いて

「焦土になったって、かまわないやないか、と私は思った。

一億の日本人がみな玉砕して死ぬ。こんな美しいことがあろうかと教えられて育ったのに、今になってこのへんで降参するとは何だ。それならはじめから戦争しなければいいんだ。」

 戦後の復興が始まり、国のため滅私奉公した乙女もやがて

「美しさも何もわからない軍人たちは、自分たちの考える美を、国民に押しつけた。自決するほろびの道である。彼らの教えたのは、まやかしの死の美学なのだ。」しかし、一方では

「あの過酷な戦争を生き延びるのに、私は、詩や小説や絵や、美しいコトバなどが手もとになければ、ひからびてゆく気がしていた。私は、精神生活はかなり豊かに送れたわけである。」と結んでいる。

 私はこの戦争を考えるとき、武器弾薬、食料さえまともに確保できない日本を米英との戦いに臨み三一〇万人というおびただしい犠牲を強いた責任、誰がそれを負うのか、何でそうした道を選ばざるを得なかったのかはきちんと検証し、後世に残さねばならないと思う。

 今日の日本の75年の平和は地下に眠る英霊のおかげであると片時も忘れてはならないし、私にできることは御魂よやすらかであれと祈るばかりである。

20.07.18

私が食道ガンを患い手術、そのわずか一週間後に妻が大動脈解離発症、緊急手術・・・あれから満4年が経過した。ふたりともひとつ間違えば死に至る病、さいわいにして医師、病院、周囲の手当のおかげで愛犬太郎とともに穏やかな毎日を過ごしている。現実に生活を維持するための職業活動からは一切離れ、年金による生活スタイルである。悠々自適と言えばそうも言えるが、人間は何か生活の糧とか生きがいとかがないと生きられない動物らしくて、何等かの目標に向かって進む性癖があると思う。

地元、東金市出身の関寛斎は開業医から72歳で一念発起、私財をなげうって北海道陸別の開拓に命を懸ける。また南アフリカ共和国のネルソン・マンデラは27年間の獄中生活ののち75歳で第8代同国の大統領に就任し、黒人人種差別の解放に大きく貢献した。

今年にはいってからは新型コロナウィルス騒動で自粛を余儀なくされ、演劇、芸術、祭りなどの文化活動は一切休止となった。生活に最低限必要とされる消費活動のみ許されるが、あとの人と人とが交わり、接触する活動はことごとく禁止されている。

こうして事態になってつくづく思うのは、世の中の活動、消費、見聞きするもの、ほとんどがぜいたくな部分に覆われていることに気付く。食べるために活動するよりも、むしろ生きがいという原動力で人間は生きているのだなと思う。

私のこれから・・・73歳を迎えて 新たな目標をさがし求める毎日である。

 

20.06.08

19.02.11にこの欄で紹介した岡垣 勇先生が50年前に読売新聞に発表した論文が数日前に入手したので紹介します。

難解な文章ですが、先生から学んだこと この論文の結語「誠実さ」こそもっとも大切である・・・先生の教えです。

6月8日は昭和8年の先生の誕生日です。先生の40歳のとき、ロンドから帰国後間もなくのころの発表です。

こちらをご覧下さい。岡垣勇 論文

 

20.06.07

新型コロナウィルスの騒動から半年が経過、非常事態宣言が発せられたのが4月7日、以後1か月半経過して5月25日解除された。しかし、経済対策を含め、いまだ第二波の感染拡大も心配されているのが現状である。

私と妻も高齢者であると同時に私はガン治療、妻は大動脈とふたりとも手術経験があって感染する可能性大である。できるだけ外出を控え、愛犬とともにひっそり暮らしている。

新聞、テレビ、ネット等で医学界、その他識者のコロナに対しての認識、対応方法を見聞きしているが、今ひとつピンとくる意見がない。

ここ数十年の傾向をみるとき、平和が長く続いたこと、民主主義という名のもとに大衆迎合社会となり人の上に立つリーダーを養成する下地が枯渇してしまっような気がする。最近、叔父越川春樹著「人間学言志録」を読んでいたら、下記の文に出会った。君子論とは言わなくても、戦後、平等社会になって、かつて日本人として誇りに持っていた「武士道」「騎士道」のベースとなる言葉を太字にして掲載してみた。この数語は今の日本では死語になりつつあるが、私は次の世代に語り継ぐべき大切な言葉(word)だと思う。みなさんのご意見を伺いたい。

 

「人物とは」      安岡正篤 

古来から人物といわれる人には根本に、気力・活力(かつりょく)気魄(きはく)骨力(こつりょく)というものがある。これらはあらゆるものを産み出す創造的エネルギーであるから、現実に甘んぜず、必ず実現せんとする何者かを発想する。すなわち理想・(こころざし)を持つようになる。この理想をもった気力を志気(しき)という。志気は旺盛でなければならないが、現実のさまざまな矛盾抵抗にあって挫折するするものでなく、一貫性、持続性、不変性をもった実践でなければならない。これを志操(しそう)節操(せっそう)操履(そうり)という。理想を持ち一貫不変の節操を持って生きる人は、単なる認識ではなく、何が正しいか(義)何が正しくないか(利)という、高い価値判断ができる。これを見識(けんしき)という。見識は勇気をもって実践する行為とならなければならない。その決断力、実行力をもつとき、これを胆識(たんしき)という。

 

20.05.15

今年3月28日泉の郷の会総会に於いて今期活動計画に盛り込んだ項目に「会報の発行」があった。泉の郷の活動を会員相互で理解を深めるとともにNPO法人として外にわれわれの考え方を発することで次代につなぐきっかけを作れればという期待も込められていた。たまたまコロナウィルス騒ぎで外出禁止、あらゆるイベント、会合は休止でとにかく家の中にこもっていることが求められた。パソコンに向かう時間はたっぷり与えらえている。

タイトルは「泉の郷だより」で伊藤理事長の了解も得た。内容については会員の意見、投稿をと思ったが、まず創刊号は発刊に至る経過と、泉の郷の掲示板にいつも掲示してある「念ずれば 花ひらく 坂村真民」について紹介、解説しようと思った。

泉の郷の建設が2011年、東日本大震災の起こった年でもあり、この会報の創刊が新型コロナウィルスが世界を席捲しているとき、国の逆境にあるときこそ、われわれが行動を起こすのにふさわしいタイモングとも言える。

泉の郷が平成の松下村塾でありたい・・・というのが私の密かな願いであった。されば吉田松陰は幕末の日本の動乱期に後世に何を残したのだろうか?泉の郷はこれから次の世代に何を繋いでゆくのか?房総が生んだ偉人「関寛斎」は73歳で徳島での医業をすべてやめて、北海道斗満の開拓に生涯を賭けた。わたしは73歳、食品小売業に終止符 をうち、ガンとの戦いで4年経過し、どうにか体調も安定してきた。これから何をどう行動すべきか?自分に与えらえた使命とは何か?

吉田松陰は、大きな事業を展開したり、建造物を建てたり、財産を残したり、ノーベル賞に値するような業績を遂げたというような人ではない。彼の幕末動乱期にこれからのどう日本が進むべくかを命懸けで考え、行動した人である。そのために山口県、萩の日本海に面した日本の片隅で、人として生きるべき道を講義し、若き青年たちの心に「志」という種をまき、自らも海外事情を知りたいという情熱で密航を企て処刑される運命で若くして世を去った人である。

その本質は「人はいかに生くべきか?」が人間にとっての大きなテーマであり、その目標達成のために自分の全生命と情熱を傾けたという事実、その影響で伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、桂小五郎などの国を背負う怱々たる人物が登場する。

吉田松陰という人物、思想、哲学が人に影響を与え、リーダーを育て、国を動かし、世の中を変えていったのである。

ここにわたしがこれからの人生の生き方の指針があると自身思う。「邪気のない心で・・・」「無邪気」人間が3歳まで持っていた素直なこころをもう一度とりもど すのが大事だと思う。そこから自分の心の底から沸き立つ言葉を探してゆこうと思う。

泉の郷だより 創刊号は こちらか らどうぞ!

20.05.03

会社経営をしていた2年前までの約15年間、私は年度始めの4月中旬には社員を集めて必ず経営計画の発表を行っていた。会社の進むべき方向を示し、全社員がベクトルをひとつにして目標に向かって進む羅針盤を文書にまとめ解説しながら発表する私の大事な行事である。

そこで毎回説明していた項目が、食品スーパーとは何か?人間が生存するために必要なもの「衣食住」・・・そのうち無駄なものは省いて最後のどうしてもなくてはならないものと言えば「食べるということ」その大事な食品を提供するためにわれわれ食品スーパーという職業が与えられている。・・・とすれば、命を守る食は安全でからだによいもの、そしてどういう状況にあってもお客様に食品をお届けする使命がわれわれに課せられているのだ。私は若い社員にあるいはベテランの社員であってもこの「食」に携わる仕事の大切さを忘れてはいけない。と主張し続けてきた。

そして今年になって世界中を席巻した新型コロナウィルス騒動である。感染防止のため、不要不急の外出と人との接触が禁じられている。そこで旅行、行楽、外食、接客、交流、イベント、娯楽、学校等すべて休止、キャンセル、工場は稼働を停止、唯一スーパーマーケット、ドラッグストア、コンビニ、ホームセンター、ネット販売、テイクアウトのみ営業活動が公然と許可されることになった。まさに私が経営計画で話していたことが現実となってしまったのである。

人類はこの地球上で食料の奪い合いの中で栽培も含め、人口増に対応してきた。が、必ず天の采配で大自然の力で人口の調整が行われてもきた冷徹な過去の事実。「戦争」「疫病」「自然災害」である。

日本は太平洋戦争(大東亜戦)で310万人の犠牲者をだした。広島の原爆で20万人、長崎で7万人、ナチスドイツのユダヤ人虐殺で600万人の戦争犠牲者である。また国家の権力闘争ではスターリンのロシア革命で2000万人、中国共産党の文化大革命で773万人が粛清されたという。東日本大震災では2万人余の人たちが犠牲になった。

今回のコロナ騒ぎで4月末時点で世界中で感染者が100万人、死者が6万人だという、いつ終息するか見透視がつかない、将来の展望が開かれない不安の中にいる。しかし、人間は困難に直面して知恵を発揮し、同時に過去の経験則から脱皮して新しい価値を創造してきた。天はしばしばわれわれにこうした課題を与えるのである。われわれひとりひとりが、国から何をしてもらえるかではなく、こういうときこそ知恵をふりしぼって、コロナウィルスを撲滅し、安心して住める地球環境をつくるにはどうするか?自ら考え行動するときだと思う。

平和と安全に慣れきった現代人、責任を他になすりつけ、自ら行動しない堕落した文明に頼る人類に警鐘を鳴らしているのがコロナウィルスではないでしょうか・・・。

20.04.08

4月1日付 日本経済新聞朝刊 広告に一面の大きさでITOCHU(伊藤忠商事)が掲載されました。その一文「商いとは何か。ただ物品を届けるだけではない。求められるものを、求める人に、求められる形でお届けすること。やがて生まれる信頼。喜び。満足。その先にある、何かもっと尊いもの・・(略)・・「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」・・・「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よしの起源となった商いの心」

商業界初代主幹倉本長治氏の言葉「店は客のためにある」「損得より先きに善悪を考えよう」に目覚めて俄然「この道より他にわれ生きる道なし」との思いでひと筋に走り抜いた私の後半生でした。商売は菩薩道であるの固い信念が自分を支えてくれたのだと思います。

そして42日付 株式会社 商業界 従業員を解雇し破産宣告の知らせ。自分が40才を過ぎてから、東京神谷町にある商業界ビルに学んだRMS(リテールマネージングスクール 当時校長川崎進一先生)自分の商人としての基礎をしっかりと確立した時期でありました。

この企業理念を訴える広告と破産宣告の知らせ、いずれも今までの自分をささえてくれた基礎であり柱です。不易流行、冷静に現実を突きつけられたふたつの出来事です。

20.04.01

【宮川熊野神社 岩戸神楽について】

熊野神社に伝えられる神楽はいつが起源か定かではないが、神楽面の裏に天保九年(一八三九年)の記述があるので、江戸時代後期、現在まで約百八十年の歴史があると考えられる。

熊野神社氏子の中で宮内地区の人たちで連綿と伝えられた神楽も、太平洋戦争終結後、日本の戦後の高度成長期(昭和30年〜昭和45年くらい)を迎えると、農村の労働力は、鉱工業へと向かう。この宮内地区で農業に携わっていた人たちも、川崎製鉄(千葉市)や、建設現場のはつり屋(コンクリート工事のハンマーによる修正作業)などの現金収入で稼ぐようになる。そして神楽は昭和37年〜昭和44年の八年間途絶える事態に陥る。この時、宮内地区で交通事故などの災難が続出し、宮内消防団の青年らが主体となり、今のうちに神楽を復活しなければ途絶えてしまう・・・という危機感から「復活しよう」の機運が盛り上がり、鈴木光矩氏を会長として宮内神楽保存会が組織された。

こうして先輩の指導のもと昭和四十五年三月十五日復活の舞が八年振りに奉納された。以後、保存会会長は藤城吉雄、越川稔、藤代淳也、藤代孝一らに受け継がれ復活後五十年を迎える。この間、昭和五十四年には町指定無形文化財に指定され、神楽殿の建設、模造面の作成、衣装の新装などを行った。

 先輩から受け継いだ際、神楽の謡(うたい)がぼろぼろの写本であったものをどうにか書き写して取りまとめた。だがこれを機に、私は近隣の神楽あるいは古事記、日本書紀の神話に照らして、できるだけ史実に近い文字に再校正しようと考え今回保存版として書き改めた。

 近隣の神楽として、東庄町笹川、諏訪大神に伝わる十六座の神楽の「御神楽謡詞帳」がしっかりと保存されているのを知り、保存会長である小早稲喜久男氏を訪ね、このコピーを分けていただき参考とした。

現在の宮川熊野神社神楽は十二の舞で構成されているが、先輩の言によると戦前にこれに「手力雄之命(たじからおのみこと)」(天の岩戸開きの舞→諏訪大神の神楽には存在する)が加わっていたという。

 五十年前の復活時に、当時のメンバーで大鼓(おおかわ)(うたい)の読み上げを担当していた石井博文氏が丹念に原簿に沿って清書し、書き残してくれたものが最もわれわれの神楽の謡の基本形である。

 今回、私なりに何か所かこれが良かろうと思い修正を加えてみた。

 また word で作成することで汎用性をもち、いつでも何処でも則時コピー印刷しやすく保存した。これで完成とは思わないし、先輩から語り継がれたものがたとえ学問上誤りであっても、その土地で受け継がれたものこそ、その土地の文化なのだからそれはあえて直さなくてもよいのかも知れない。 

 春季例大祭に五穀豊穣、天下安穏を祈って奉納される神楽は芸能である以前に神事である。どんなに文明が発達しても、人間の力では推し量ることのできない大自然の力を畏れる謙虚さを失わないためにも大切な行事だと思う。

 これからも熊野神社から神楽の音が絶えることなく受け継がれて欲しいと願う。

神楽謡(うたい)

    

20.03.08

新型コロナウィルスが蔓延し、世界中がその対策に翻弄されている。日本の国も学校の休校、ほとんどのイベント集会の中止、海外からの旅行者のストップなど、単に観光業者にとどまらず、経済活動全体に波及した緊急事態宣言発動の状況である。思えば8年前2011年3月11日の東日本大震災のときもほぼ同様の状態であった。人類は絶えず予想を超えた出来事に出くわす可能性に満ちた日常を過ごすことの危険をはらんでいる。

この二つの出来事を見て感ずるのは、いずれも突然、初めて起こった出来事ではなく、必ず、過去の歴史で経験済みの災害である。たとえば、三陸の津波に関しては

「明治29(1896)年6月15日、午後8時ごろ三陸沖で発生した地震に伴う大規模な津波 により、三陸沿岸を中心に死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上という我が国津波災害史上最大の被害が発生した。」

という記録がある。

また伝染病に関しては、最近読んだ本で銚子で醤油製造業を営む濱口梧陵(いなわらの火で有名)の物語の中で、幕末のころ江戸でコレラが流行し、当時、千葉県でも最も人口のい多かった銚子の町をどうやって守るか、・・・

蘭医の三宅良斎、関寛斎らを招き、金700両を投じて、コレラの蔓延を防いだ。

このふたつの事件をみてわかることは、必ずその土地に過去の事例が存在して、その過去の事例が語り継がれて2度と失敗せぬ学習がなされているかどうかが大事だと思う。その土地で起こった天災事変かその土地の小学校、中学校の学校教育に生かされていなければならない。

 

20.01.27

昨年99日、房総半島を襲った台風15号は、千葉県全域に甚大な被害を被った。特に風速40mを超える強風が送電線をも押し倒し、南房総方面では家屋の損壊はもちろん、処によっては2週間以上の停電と断水で、暑さも加わり、健康被害にまで及んだ。

われわれ東総地区では、杉林の倒伏があちこちに見られた。数日後のテレビの報道でその杉のなぎ倒された様子がテレビに映し出され、学識者と思しき人が解説を加え「木々が倒壊した原因は、山の手入れを怠ったため、木の内部に虫がはいり、中心部がボロボロになっていて、今回の風でもろくも倒れてしまったのである」と説明していた。その数日後、出会った人数人から今回台風により杉林の木が倒れたのは木の中心部が虫食いのため空洞になってしまっていたためである。と会話の中で皆さん異口同音に語るのを聞いて私は驚いたのである。

ひとつの普段知らなかった情報についてたまたま報道で聞きかじった知識が瞬く間に世の中の常識にまかり通る現象を恐ろしいと私は感じたのである。

かつて私は「大都会に作られた自然の森明治神宮の森」・・・本多静六博士の理論を正論と思っていた。博士は神宮の森つくりの際、伊勢神宮のような杉、ヒノキの単純林を作ってはいけない、それは横風にもろいからである。照葉広葉樹との複合林が災害にも強く循環の森として生成発展するという理論である。当時の首相であった大隈重信の主張をも退け、玩として譲らなかった氏の見識である。

事実、私の友人の山武杉の山持ちM氏も模範的な手入れの行き届いた植栽後約230年の杉林を管理していたにも拘わらず風の通り道では半分以上が折れ曲がり商品にならなくなったと嘆いていた。

杉の木の倒れたのは管理不足のための芯の空洞化もあるだろうが実際は人口植林の杉の単純林であったためなのである。

今日天災や事件、政治に関する不祥事などについて報道機関が一般市民にマイクを向け意見を聞くことは多い。マイクを向けられた市民は聞きかじりの知識で評論家ごとき生半可わかったようなことを言う。そしてその放送局は取材した番組を編集して、「国民のほとんどはそのように考えています」と印象付け世論 が構成されてゆく。番組編集者の意図で世の中の価値基準が作られてゆくことの怖さを思うのである。

20世紀が大衆の時代と言えば、21世紀はインターネット・情報過多の時代ともいえる。ネット配信によりわれわれは安易に知識、情報を得ることはできるが、深く物事の本質を見極める ことをせず、独自の価値を創造してゆくタフな頭脳を失ってしまった。貴族、エリートの統治の時代から、民主主義、国民主権の時代へと変化し、次に権利ばかりを主張して誰も責任を負わない時代になりつつある。

地球温暖化の問題も、じわじわと人類滅亡へと進みつつあり日本の国家財政の赤字も膨らむばかりだ。

しかし、総論賛成、各論反対、みな自分の生活が優先、最後の責任には目をつぶっている。

今回の山武杉の倒壊をみて、世論という名の短絡思考、議論ばかり重ねて誰も本質に迫ろうとしない、その場をただ漫然とやり過ごす無責任体質をまざまざと見せつけられたと思う。

これも年寄りの繰り言か・・・?。

 

20.01.12

新年明けましておめでとうございます。いつもこの繰り言をご愛読くださりありがとうございます。

今年一番に、昨年4月より取り組んでいた熊野神社の石碑文の解読、この難解な作業、諸氏の協力を得てやっと完成しました。紹介します。

令和元年五月 熊野神社本殿改修工事を二八〇年ぶりに行い無事完工した。藤城吉董宮司、伊藤正芳総代長、木原孝明社友会会長らを先頭に氏子が一体となって携わった。藤城宮司にとっても集大成ともいうべき事業であった。同年九月、台風十五号の強風により大鳥居(三十年改修設置)が倒壊した。鳥居正面入り口に茨城県山本石材店御影石寄贈による熊野神社銘石の建設中ばの時であった。この時、神社正面東に据えられている碑文石に注目し、この際この碑文を解読しようと思い立った。まず拓本をとり表具し、次いで文字の解読、文字の欠けた部分もあったが諸氏の協力を得てかろうじて可能に。次いで古文書に詳しい方にお願いし、これを読み下し文にして仕上げた。約二百年余前の構築物とあって意味が今一つ明快でない部分もあるがほぼ全文解読した。これを後世に継承し、宮川熊野神社の御神徳の発揚を祈念するものである。 

碑文解読協力者 四街道市 吉川綾子様  横芝光町木戸 乾 浩様   文書作成    熊野神社氏子  藤城吉雄

令和二年二月節分の日 拓本額を添えて 熊野神社 大神様に捧げ奉る   横芝光町宮川2501-5 藤城吉雄

宮川之碑

惟熊埜之神其實 伊邪那美尊配祀

伊弉諾尊事解男王子 貞観中詔兆下総州 

匝瑳郡為熊埜神座 其南有川東流通海   

曰宮川其祠後祀咲弥姫命 副為爾来千餘歳

為十有八村之社歳時祭祀 崇敬日篤其北則

田圃接壌土人耕稼于 斯西則驛店鱗次行旅

然繹其東進接矢指浦 賈舶漁舟前唱後應

蓋海濱之富漁網之利 殆申近別仰霊護冥助

可不欽仰哉因立石以銘

吁我神霊 発祥千古

蘋蘩薀藻 威徳是普

漁網之利 耒耜之祐

冥二有助 永護楽土

東都学士成島司

  (裏 面)

文化十一年歳次甲戌

奉祠 藤代吉ェ撰拝書

長塚郷 吉田吉太夫常政大

 

これを読み下し文に

宮川之碑(みやがわのひ)

(これ) 熊埜之神(くまののかみ) 其實(そのじつ) 伊邪那美尊(いざなみのみこと)(まつ)(はい)ものなり

伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男王子(ことさかおのおうじ) 貞観中(じょうかんちゅう)(みことのり)(くだ)されて総州(ふさのくに)(きざ)

匝瑳郡(そうさのこおり)熊埜神(くまののかみ)として()すなり 其南(そのみなみ)(かわ)(あり)(ひがし)(なが)(うみ)(つう)

宮川(みやがわ)其祠(そのほこら)(のち)咲弥姫命(さくやひめのみこと)(まつ)ると(いわ)く 爾来(じらい) 千餘歳(せんよさい)()えて()

十有八村(じゅうゆうはちそん)(やしろ)として歳時(さいじ)祭祀(さいし)() 崇敬(あがめうやまうこと)()(あつ)く ()北則(きたがわ)

田圃(たんぼ) 壌土(じょうど) (ひと)(たがや)して()とする() 斯西則(このにしがわ)には(えき)(みせ)(うろこ)のように(なら)旅行(たびゆ)

(しか)るに其東(そのひがし)(すす)んで(たず)ぬれば矢指浦(やさしがうら)(せっ) 賈舶(あきないぶね)漁舟(りょうのふね)(まえ)(とな)(うしろ)(おう)

(けだ) 海濱(かいひん)()(とみ) 漁網(ぎょもう)()() (ほとん)(ちか)くに(べっ)して霊護(れいご)(みょう)(たす)けを(あお)ぐと(もう)

欽仰(きんぎょう)()から() (より)(いし)()(もっ)(めい)とす

(ああ) (われ)神霊(しんれい) 千古(せんこ)(しょう)(はっ)

蘋蘩薀藻(ひんぱんうんそう) 威徳(いとく)(これ)(あまね)

漁網(ぎょもう)()() 耒耜(らいし)()(ゆう)

(くらがり)()(たす)(あり) (なが)楽土(らくど)(まも)

東都(とうぶ)(まことの)学士(がくし) 成島司直(なるしまもとなお) (しる)

文化(ぶんか)十一年(とし) (つい)甲戌(きのえいぬ) 春三月(はるさんがつ)

(ほこら)(たてまつ) 藤代吉ェ(ふじしろよしひろ) (しょ)(はい)して(えら)

長塚郷(ながつかのさと) 吉田吉太夫(よしだきちたゆう)常政(つねまさ) (うし)

2020年

19.12.31

今年1年を振り返ると、まず平成31年に終止符をうち5月1日より令和の新しい年号がスタートしたこと、台風15号、19号と千葉県房総半島を縦断する送電線の鉄柱が倒れるほどの大風で被害甚大、ところによっては1か月近く停電した災害があった。私自身に関しては、昨年年末突然手のひらの激痛に襲われ、爪の付け根が黒く死んだ状態、そののち、目、脇の下、口内炎と、粘膜が次々に侵され、手の甲の皮がむけてケロイド状に、急きょ旭中央病院に入院して今年の正月を過ごした。原因はおそらく3年前の食道ガンの治療の際、抗がん剤、放射線照射などによる抵抗力が弱くなっていてウィルスまたは細菌による皮膚感染症であったと思われる。後で食道ガンの手術、治療に携わってくれた梶山先生から私のガンの病状がステージ4のAだったと聞かされ、間一髪で命拾いしたのだったと知った。当時はガンに侵された部位を切除すれば簡単に解決する病気くらいに思っていたのだからノー天気と言われても致し方なかった。幸い、3年経過した現在、転移再発の様子は見られないが油断はできない。2月中旬には皮膚病が治ったのだが、月に1〜2回、小便器排泄時、便器内が真っ赤な血でいっぱいになることがあった。同じく旭中央病院、泌尿器科で検査を受けると、尿管と腎臓内に結石ありという。1年前に衝撃波による簡単な手術で石を破砕するのを行ったがうまくゆかず、そもまま放置していた。今回、手術で結石3個を取りましょうというK医師のすすめで4月1日、部分麻酔で手術を行った。まず尿管内の石を取り除き、次に腎臓内の石を取り除く予定だったが腎盂内にレントゲンによると血痕か悪性の腫瘍かの曇りが見られるので、とりあえず、石は取らず、細胞の検体を取り出し、尿管にスレントを挿入して手術を終えた。1か月後、K医師より検体結果異常なしということで一安心していたが、なぜかその1か月後、家族とともに呼び出しがあり、やっぱり腎盂ガンでした、左腎臓、尿管、膀胱の一部を全摘出手術が必須だという。「セカンドオピニオンを求めますか?」と先生から言われたので「ハイ」と答え、私は食道ガンの手術を行った順天堂泌尿器科で手術を行うことに決めた。手術は順天堂の医師団を中心に東京共済病院で6月28日に実施した。4月1日から約3か月間、尿管にステントがはいった状態(腎盂ガンによる尿管がふさがるのを防ぐため)は15分おきの尿意、しかも排尿時の血尿と激痛、しかも尿漏れの3重苦の状態が続いた。尿漏れパンツをはき、痛み止めを服用し、出先では絶えずトイレを探して、駆け込む地獄のような状態が続いた。しかしこうした病気とに闘いは命あればこそと解釈して自分を励ました。腎臓摘出手術後、痛みが残ったのと不眠に悩まされたが、これも飲み薬でしのぎ、術後3か月ほどでほぼ元の状態まで回復した。

その間、1月より、完全に会社経営の現場から退き、チラシに掲載していた一口一言を一冊の本にして500部刊行、また地元熊野神社本殿改修工事の完工を記念しての熊野三山旅行の幹事を仰せつかっていた。9月28〜30日の2泊3日の旅行の幹事役として参加者の把握と日程の最終決定を控えていた。体力の回復を待って参加者29名、阪急交通社との団体専用契約ができて、伊勢神宮令和両参り、熊野本宮大社、熊野速玉大社での正式参拝、熊野那智大社参拝、最後に高野山奥の院参拝と内容の濃い旅行を完遂することができた。

これら一連の病気との戦い、会社譲渡の判断と決定、経営トップの座を去ってからの日常生活のあり方、毎日の健康管理、すべてを振りかえるとき、人間にとって運命とその経過はほとんど「自分のこころの有りようによって決定する」としみじみ思う。絶えず自分に降りかかる災難や幸福はすべてはそのひとに課せられれた宿命でありそれをどう乗り切り、どう解釈するかはすべて自分自身の問題であり責任である。

私にとって大学2年で中退するのを決定したとき、千葉おゆみ野に出店してわずか2年で撤退を決めたとき。そして30年営んできた株式会社村市を譲渡すると決めたとき、これらの判断はすべて清水の舞台から飛び降りるのを決定したときである、ヒトは勢いを持って前にすすむことはむしろたやすい、退くタイモングと決定は最終的に孤独な判断である。前大戦での日本軍は明治のロシアとの日本海海戦を皮切りに世界の舞台に進んだが、身の程知らずで退く勇気とタイミングを失い、あまたの戦死者の犠牲を強いた。

今回の株式譲渡では会社の名を残し、従業員の雇用を確保し、問屋お客様との良好な関係を保持して存続継承するのを目的とした。社員のほとんどが継続して会社のために励んで良い業績を維持してくれているのをありがたいと思う。命をかけ、会社と一身同体、寝ても覚めても会社をどうかじ取りするかに集中した人生であった。譲渡したからハイさよなら・・と言いたいが、本音で言うと1月に退いてからも社会の情勢、他の店舗をみてああしたらよい、こういうやり方はどうか?とか言いたいことは日々わき起こる。しかし・・・経営権を失ったものが口出ししたらどういうことになるかは火をみるより明らかである。前社長、前相談役の発言、干渉は絶対にやってはいけないタブーである。

まあ、元専務の妻がお店で買い物をして、その商品を見て現役時代と比較してブレていなかれば安心し。易きについてグレードが落ちたな・・と思うとちょっとイラッともするが妻いわく、譲渡したのだからいい加減にしなさい。と注意されてまあそうだねと観念する。

戦前戦後の人の変質ぶりを作家橋田須賀子は「おしん」の小説で語っているが、国のためにと昨日まで言っていたのが終戦と同時に軍国主義で国に騙されて戦地に赴いたと手のひらをかえした教師の姿を描いている。何ともさみしい生き方だと思うが、株式譲渡でもすべての社員が創業社長に敬意を表するわけでもなく、やはり人の子だから経営者が変わればそちらに目を向けるのはごく自然な行為だと思う。ただ以前にも言ったことがあるがリンカーンが言った言葉「世の中に卑しい仕事、職業というものはない、ただ卑しいひとがいるだけだ。」という言葉があるように人間にとって節操というのは大事な部分だとわたしは思う。大きな価値の変革のとき、そのひとの本心が見えてくる。

今年も一年ありがとうございました。この欄を愛読くださるかたに感謝。どうぞよいお年をお迎え下さいませ。

19.11.27

今年の大相撲九州場所は横綱白鵬が43回目の優勝でこの1年を締めくくった。白鵬自身が2020年の東京オリンピックまでは現役を維持したいと語っていたが現実それは実現するのが見えてきた。そして解説北の富士が語るように優勝50回も不可能ではないという説も現実あり得るだろう。今回の優勝後、横綱審議会全員が白鵬の相撲で立ち合いのかちあげ、張り手が横綱としてよろしからぬ技だからやめるよう審判部に指導してくれと要望が出たという。解説者の舞の海秀平も横綱としてやってはいけない手であると批判した。しかし私はそうは思わない。相撲の四十八手を含め、ルール上公認された一手であり、力量の低いものがこの技を使うと、立ち合い両わきがあいて相手にもろ差しを許すことにもなる。張り手、かち上げを回避してどう相手と戦って勝つかを考えればよいので、日本の国技である相撲界をモンゴル勢に占められているのは日本人の力士の力が至らないからでもある。現象だけをとらえて、本質を見失っているとしか言いようがない。そもそも相撲はスポーツの一種であるなら、ルールをもっと明快にすべきである。立ち合いで両手をつかないと行司が待ったをかけるが、どこまで徹底しているのか、大事な相撲の大一番であまりに行司が手をつくのを厳格にして何度も仕切り直しをさせ、力士がしらけて力のはいらない相撲をみていると、何か腑に落ちない。今年一年、横綱、大関の休場が多く優勝者が入れ替わり、最多勝利者が小結朝乃山というのだから、どの相撲も押してははたく、数秒の三流役者ばかり、やがて観客から見放される危機感は相撲界にないのが不思議である。今満員御礼で一見人気が維持されているように見えるが、モンゴルから日本に帰化し、日本の文化を理解し溶け込もうとする、また横綱としての地位を保つため、たゆまぬ基礎運動を怠らず、相手を研究し他人からのアドバイスを素直に聞き入れる白鵬が相撲界では歴史上まれにみる優れた力士であることを認めてあげるべきだと私は思う。

19.10.24

プロ野球、日本シリーズ巨人対ソフトバンク戦が行われ、4連勝の圧倒的強さでソフトバンクが勝利を収めた。選手層の厚さの相違が勝敗の分け目でもあったが、ジャイアンツの守備と攻撃に凡ミスがあり、そこに付け込まれて得点を許したのが試合の流れを決定付けた。巨人の守備のエラーや、走塁の判断ミスは高校野球でもありえないようなレベルの低いミスであったのが巨人ファンとしては情なかった。試合中の観客はマナーがよいのはわからないではないが、観客は高いお金をはらって球場まで足を運んでいるのである。プロとして納得できないプレーならば、観客はもっと明確にブーイングを主張すべきである。

優勝を決定づける4戦目にはネット裏にソフトバンク野球会長 王貞治氏、ソフトバンク社長である孫正義氏が観戦に訪れ、優勝が決まった瞬間、グランドに出て選手とともに優勝の喜びを分かち合う光景がとてもよい印象を受けた。アナウンサーの解説で、王さんが監督時代に築いた伝統が工藤監督に引き継がれ、それが見事に花開いたという。

王さんが伝えたかった精神とは「選手にとってひと試合は1年間の125分の1である。しかし、観客にとっては一生に一度の貴重な1試合だけの観戦である。1試合1試合を決しておろそかにしてはいけない大事な1試合と思って戦え!」というのである。たまに、監督や解説者が選手がミスしたり、ピッチャーがこてんぱに打たれて試合を台無しにするゲームを解説して、次のステップへの過程ですねなどと甘やかした発言をすることがあってびっくりすることがある。成長への訓練は2軍の試合でおこなうべきで、プロの試合を堪能する期待をもって観客は球場に足を運ぶのである。お客様からお金をいただくことの原点、責任を問われているのだといつも緊張感をもって臨めと王さんは言ってるのだと思う。野球界の人気を背負ってきた長嶋と王のふたり、長嶋選手は巨人の本流に残り、王さんはパリーグ、ソフトバンクに移って野球精神を伝えようとしている。微差が10年、20年ののち大きな差となる。鍵山さんの言葉を実証した日本シリーズであった。

19.10.08

地元の産土様 熊野神社の本殿を280年ぶりに改修工事を行い、その完成祝いに和歌山熊野三山お礼参りのツアーを計画、9/27日〜29日の2泊3日の旅行を行った。この旅行の幹事を仰せつかり、半年前から旅行社の選定、旅程その他の交渉、参加者の募集と一連の作業を すすめてきた。予算の関係で旅行者の一般ツアーからの内容の充実したものを選び、団体受付担当者と買取によるわれわれのグループ専用のバス、宴会場の手配ですすめた。宮司、総代長、社友会会長以下総勢29名、女性6名を含め、名古屋まで新幹線、現地では大阪のガイド付観光バス、1日目は伊勢神宮、外宮内宮の両参り、おかげ横丁赤福本店でかき氷を食べ (9/30まで限定販売)、二見ケ浦へ夜の宿は的矢湾に面した伊勢志摩ホテル泊、2日目は熊野速玉大社正式参拝、上野宮司の案内で神宝館を拝観、予想以上の時間を要したので瀞峡、ウォータージェットは中止、 瀞峡熊野川レストランで昼食後、熊野古道大門坂へ、やや小雨降るがそのまま那智の滝へ、きつい階段430段を登り詰め、熊野那智大社、青岸渡寺に参拝後下山し、バスに戻り勝浦温泉「ホテル浦島」へ舟でわたる。忘帰洞、玄武洞の硫黄泉で旅の疲れを癒す。3日目、熊野本宮大社正式参拝、記念撮影、日本一広い村十津川を通り谷瀬のつり橋で休憩、山道を走って高野山奥の院へ。我が家も真言宗智山派、南無大師遍照金剛のお題目を唱える弘法大師さんの末寺である世貴山の檀家である。帰路は新大阪から新幹線に乗り、横芝光町役場前に帰着し たのはほぼ予定通り、深夜の24時15分であった。全員事故もなく初期の目的も達成し、天候もまずまず、幹事の口からいうのもおこがましいが大成功だったと思う。

熊野古道を経て熊野詣でしたかつての平安、鎌倉人は強い信仰心を持っていたのであろう。田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されて いる。

京の都から賀茂川を下って大阪湾に出て泉州、海南市から向かうコースもある。熊野九十九王子の一番札所に海南市和歌の浦に藤白神社がある。全国の鈴木姓の総本家がここにある。私の姓は藤城(フジシロ)だが、先祖はおそらく和歌山、藤白神社のあたりかと思われる。 熊野神社と藤城の祖先とのご縁、この脈絡の中に今の自分の存在がある・・・。

宮川熊野神社の氏子みなさんとともに、本家筋に神社の繁栄、各家庭の健康と弥栄を祈念し、報告できたこと、旅を終えて1週間を経た今、しみじみよかったなと心底思う次第である。

19.09.24

9月9日未明、台風15号が通過した。私は前夜、この1か月服用している睡眠薬を午後10時にのみいつも通り熟睡、午前5時に目覚めた。まだかなりの雨と風が吹き荒れていたが、あとで妻から聞いたが家が揺れるほどの強風であったという。明るくなるのを待って雨具、長靴を身に着け家の周囲を見回ると木の枝と葉が道路いっぱいに落ちているのはもちろん、我が家の本部事務所わきの駐車場のポートの柱がへし折れ屋根が吹き飛び,となりの家の庭に落ちていた。さらに泉の郷が気になり神社前を通過すると、熊野神社の大鳥居が横倒しになっている。泉の郷は南側戸板2枚が吹き飛び、オリーブの木が根こそぎ倒れ、バラの屋根付き柵が土台から吹き飛んで倒れていた。

その後8時くらいから停電、数時間で回復するだろうとLEDのランタンを点し妻とじっと部屋にこもっていたがそのうち水も出なくなる。昼はカップラーメンでしのぐが一向に電気がつく見込みがない。その後携帯電話の蓄電量が減ってきたので、太陽光から電源が取れる装置に切り替え充電してどうにかスマホによる情報は確保した。夕方6時になり夕食の時間になったが部屋は暗いし風呂にもはいれず、気温は35度と蒸し暑く、とにかく外に出て外食にしようと車で国道に出てはみたが、これがどこも渋滞、レストランは停電で休みか、通電しているところは売り切れと満席、コンビニは弁当どころか食料品の棚がガラガラ、やむなく自宅にもどりソーメンをゆでてさみしく二人で食べる。何もするこ とがないから寝ようとしても猛暑でうちわであおいでも眠れない。車にエアコンを回し、睡眠薬を飲んでどうにか車の中で眠りにつく。

停電2日目、昨夜は仮眠でからだは疲れトイレの水は流せず、汗ばんだからだとまともな食事にありつけずストレスの塊、ラインで長男は千葉市おゆみ野の家が電気がきているから 避難してくれば・・・東金高速道路も開通したという情報を得て、せがれ夫婦宅に駆け込み一安心。愛犬がいるのでその晩は家に帰り、翌日また千葉まで出向き長男夫婦にお世話になる。今回の台風は以外なほど被害が大きく房総半島全域で電柱や送電線が倒れ、地域によっては20日くらい停電が続き、ライフラインが途絶えた。実に50年に一度という天災である。おそらく瞬間最大風速50mは吹いたであろうと想像する。文明に慣れきって即 、緊急事態に対応できない自分が情なかった。各方面からお見舞いの電話や言葉をいただいた。口ではいろいろ言えるが、こころが動揺しうろたえる自分にまだまだ修行が足りないと現実思いました。

19.08.23

処暑である。連日30℃を越す暑さからやっと解放され田んぼの稲刈りも始まり稔りの秋を迎える。今年をふりかえってみれば昨年の年末の入院に始まり、病気と手術、療養の連続であった。さいわいにも1月1日から会社の役職を退き、年金生活者となったタイミングにピタリと合致した。それほど猛烈に会社一筋という生活ではなかったのだが、精神面のどこかに社員.パート80名の責任者としての緊張はあったのかも知れない。年金生活ともなれば何の心配や悩みはないだろうと思われるが、人生 はそうはゆかず日々の中に必ず、問題や障壁が発生する。先日、書を読んでいたら、苦難、悩みがあるのは生きている証拠である。と書いてあった。本当の意味での安寧(あんねい)は死後の世界のことなのだろう。そう思えば神様が自分にいろんな課題、テーマを与えてくれそれと立ち向かい、乗り越えるためのエネルギーを養ってくれる環境にあることをありがたいと思わねばならない。来月には長男に令和生まれの女の子が授かり、嫁さんの両親とともにお食い初めの祝いの席が予定している。

19.07.18

6/28 PM1:00 予定通り 東京共済病院にて 左腎臓、尿管、膀胱の一部を摘出する手術を完了する。PM6:00までの5時間、HCUに一晩、あと一般病室で術後の観察治療を経て7/7退院する。3年前の食道ガンの手術の際は胸、脇腹、のど付近を切開する手術、今回の腎盂ガンは左わき腹、3か所穴をあけ、腹腔鏡手術、ならびに腎臓を取り出すため左へそ下10cmくらい切開の手術を行った。前回は術後3週間で退院あとは自宅療養で、放射線治療を1ケ月半行った。今回は術後10日で退院はしたものの、傷あとの痛みが長引き、本日で3週間を経て、痛み止めを服用し、終日ベッドに身体を横たえている。他の医師から聞いた情報では、胸付近の切開は治りも早く、痛みも和らぐが、腹部の切開は収縮もあり、どうしても突っ張られるために傷の痛みの解消までは時間を要するとのことである。

食道ガンの時は食事の量が半減し、体重が10kg減ったままで不安を覚え、今回は痛みがなかなか取れないのでどこか化膿でもしてるのでないか、縫合がうまくいかなかたのではないかと猜疑心に悩まされた。こうした術後の経過について、医師なり看護師が一言患者に一般情報にあらわれないアドバイス、忠告をしてくれると患者は安心するのではないかと思う。手術さえ終わればあとは自分の体力の回復を待つというのが医学の常道だとは思うのだが・・・。

わたしもこの年代に至るまで、まさか2度のガンの手術をすることになろうとは思いもよらなかった。しかし、幸いにも、病院と医師に恵まれ、こうして命永らえている。ありがたいことだと思う。また家族、友人の励ましを受け、仕事上、経済上の心配もすることなく療養に専念できることもありがたい。平常の生活に戻るのにもう少しである。

19.06.22

5/30 東京 順天堂医院 泌尿器科 堀江教授と面談する。3年前胃・食道外科で梶山教授のお世話になったこと、旭中央病院で尿管結石の手術をおこなったことを話し、腎盂癌と宣告された今、今後の治療を堀江教授にお願いしたい旨を伝える。

とりあえず6/12当院にてPET/CT検査を行い、その結果をみて今後の治療方針を決めましょう。現在ステントが尿管にはいっていてつらい様子なので、この順天堂だと10月まで手術の予定がはいっているので、順天堂関連、または提携病院で早く手術可能な場所を探し、われわれスタッフが出向いて執刀する方向ですすめます。との回答をもらう。少し先が見て安堵する。

6/12 順天堂医院 PET/CT検査 約2時間を要す。

6/19 順天堂医院 泌尿器科 磯谷医師 PET/CT検査の結果、肺にかげりあり。がん細胞の可能性あるので、当院 呼吸器科の診断を受けるよう指示あり。問題なければ東京共済病院6/27入院、6/28手術の方向で段取りするとのこと。夕刻、呼吸器科(内科・外科)3年前のCT画像で肺の状態を比較すると、全く同じままなので今の時点で問題なしと判断できる。との結論。

6/20 東京共済病院(目黒、山手線恵比寿下車タクシー7分) 泌尿器科 中村聡医師。 妻洋美、長男吉徳同行で面談、「腎盂癌(じんうがん)」の手術手続きですすめる旨確認、6/28左腎臓、尿管、膀胱の一部を腹腔鏡手術により摘出手術を行う、約4〜5時間の予定、前日の6/27入院し、入院期間は約10日〜2週間とのことである。4/1 尿管結石の手術以来、体内にあるステントで 頻尿、尿漏れ、血尿、常時痛みと 鎮痛剤の服用と 苦しい80日間であった。やっと解決の道が開かれ、この約2ケ月間苦しんだのはなんだったのか?と思う。

食道ガンに続いての腎盂ガン、現代医学の検査機関の発達で病気がみつかり、適切な処置をしてもらえることに感謝。健康をとりもどせば、その分また世の中に還元しなければと思う。それもムリ無理してでなく、自然体で行えればと願っている。

19.05.18

今年320日に順天堂医院、食道・胃外科定期検診で造影剤CT検査にて 橋本先生の診断で腎臓結石と腎臓に一部疑いがみられるで地元の 旭中央病院で詳しい検査を受けるようにとの診断をいただきました。

322日旭中央病院に行き診察、CT検査 326日左尿管に結石と腎盂にくもり(血痕か悪性腫瘍か?)があるので3/29入院 4/1手術と決定。4/1 内視鏡による手術、尿管にある石は取り除くが 腎盂部分はがん細胞の疑いがあるので付近の石は取らず、検体を採取し、尿管にステントを入れて手術終了。(担当金子医師)

4/10 検体の結果が出て 細胞検査 良性で問題なしとのこと。次回結石を取る手術を5/10に行うと決定。

しかし突然、5/8 家族と一緒に来院されたしとのTEL金子医師よりあり。

4/10の報告は誤りで検体検査結果は腎盂ガンとのこと。したがって5/10の手術は延期し、6/6 左腎臓と尿管、膀胱の一部を切除する手術を行うとの知らせあり。

わたしはこの診断に対しセカンドオピニオンを求めます・・・その後どこで 手術を行うか決定したいと告げました。

5/10旭中央病院から 順天堂医院あて すぐさま セカンドオピニオンの通知を送っていただきました。5/13旭中央病院から順天堂医院に医療データとセカンドオピニオン依頼書が届いたと順天堂医院医療連係室よりTELいただきました。

その後 順天堂医院食道・胃外科 橋本教授に相談したところ 泌尿器科教授 堀江重郎様を紹介いただきました。

518日現在 順天堂医院からの連絡待ちの状態です。

また4/1の手術の際 挿入されたステントのためか? 頻尿(15分に1回の排尿)、排尿時の痛み、血尿、尿漏れによる不快感に悩まされ、早くステントから解放されたいとも思います。良い方向にすすんでくれればと願っています。

19.03.21

今回出版した一口一言のまえがき欄の写真に掲載した恩師岡垣先生、市川英語スクール(私は20年間、岡垣先生への恩返しのつもりで経営していた道楽の学校)で撮影した先生74歳、亡くなる8年前の写真である。

このころ先生がよく話されていた言葉「私は年齢からいって体力は衰えているかもしれないが、私の知性と頭脳はさらに冴え渡っている。今まで万巻の書を読み、森羅万象の研究を重ねてきたが今現在世の中に起こる事象がすべて明らかに澄み渡って瞬時に解明できる。自分自身ほんものの年代にはいってきたのを実感している」と・・・。今場所の白鵬をみていると数年前から限界説、下り坂と批判されているが、相撲取りに33歳復活説というのがあるそうだ。スポーツの世界で体力は全盛期を過ぎてもそれに勝る勝負勘、間合いを謀る察知力、自分を取り囲む全体の雰囲気と流れを読む力などはさらに充実の域に達して、勝つことが当たり前の境地に達するという。

わたしも、仕事の第一線を退いて3か月、人間の強欲にかられている人と、こころから素直で気持ちのやさしい人との区別が一瞬にして見えるように最近思う。肩書きがあったり、言葉上手な人はたくさん出会うがそんなひとはもううんざりだというのが今実感する。ますます偏屈なおやじになりつつあるのか?いや自分では良寛のようなまっさらな老人にだんだん近づいているのだと思っている。

19.03.07

昨年末に発症した意味不明の「スティーブンスジョンソン症候群」という一種の皮膚病に感染し、2月いっぱいの約2か月ちょっとでようやく完治した。2年半前の入院、手術、抗がん剤などの治療により自分ではもう元通りの身体にもどったと思っていても、基礎体力、抵抗力はやはり意識しない部分で弱ってきているのであろう。これからも自分自身、無理は禁物と肝に銘ずる。

2月15日発刊で、「店主の一口一言」を関係者、かつてお世話になった方、親戚などに手渡し、郵送などで送った。約半月で500部初版印刷で7割方配布、あとは村の市場東金店のサービスカウンターにてお客様希望者に無料配布の予定である。

こちらの身勝手で自己満足の自費出版の一冊のしがない本だが、目を通してくれ、感想を電話、メール、はがき、手紙などでていねいなお礼の言葉をいただき、「感動した!一揆に最後まで読んだ!」などの感想を寄せていただいて恐縮すると同時に逆にわたしのほうがありがたく感謝の気持ちで胸が熱くなった。

なぜわたしがこのように新聞の折り込み広告に一文を掲載するようになったのか、またそれが継続できたのか?そのきっかけは本の中にも書いたように須田先生の教え、「チラシはお客様へのラブレター」という考え方を守ったこと。継続できたのは、わたしが家業を引き継いだとき強く感じたこと、自分の住んでいる周辺にCultureという名にふさわしいものがどこにあるのだろうか?、自分の職場と職業にCultureという風土、雰囲気が存在しているか・・・の問いかけに十分こたえてくれるものが見えてこない飢餓感が一行の文章に託してみようと強く思う動機づけになったのだと思う。そして現在、書の211頁9月27日号に書いたとおり晴れて無位無官の身となった今、この本を読んでくれた人との感応、共振、こころの琴線でつながることの喜びをしみじみと感ずる。

たった一人の人でよい。自分の価値観に共鳴してくれる人がこの世にいるということが自分にとっての励みであり生きがいでもある。今回の出版で強く感じた次第である。

19.02.20

2月15日付けで「店主の一口一言」が発刊の運びとなった。私が新聞の折り込み広告の片隅に掲載した一文を約13年にわたり書き続けたささやかな文章である。 いとこの水産タイムズ社を経営する越川渚さんの紹介で日本新聞印刷、野村氏との縁で今回出版の運びとなった。さっそく知人、近しい友人らに「謹呈」の短冊を入れ送った。友人のひとりからコメントが入り「面白く一騎に読ませてもらった。できればあとがきを入れてもらいたかった」というのである。なるほど・・・そこまで思いが至らなかった。もしあとがきを書いたとすれば、

わたしは一口一言を通じてお客様と社会に向け、ヒトが生きていくうえで食べるという行為がどれほど大切なものであるか、その食料を提供する食品小売業がいかに重要な役割を担っているかを書き続けてきた。今こうしてその第一線を退き、次への課題を模索するとき、まず地球上の生物は子孫を残すとほぼ同時に自分も寿命を迎える仕組みになっているということである。ただ現代の日本では医療の発達により人生100年時代と言われ、第二の人生をどう過ごすかが重要な課題として突き付けられている。だが大局からみれば必ずヒトは死ぬのであり、究極のところ「どう死を迎えるか?」は重要なテーマである。いかに生きるかからいかに死ぬるか?避けては通れぬテーマは正面から向き合う必要がある。できればピンピンコロリの自然死が望ましいと誰しもが思う。しかし人間であれば自らの意思で死に向かう方法もある。それは絶食である。生きるために食べる行為があったのなら死に向かって食を絶つという行為も重要な選択肢のひとつである。ヒトは絶食により3週間から長くて70日で死を迎えることができるという。人工による点滴や酸素吸入もまったく施さないで心臓停止による安らかな眠りにつく方法である。

今回、わたしの言いたい放題、つたない文章におつきあいいただいたチラシ広告の読者、そして今回の出版した小冊子に目を通してくれた方、ありがとうございます。あらためて読者に励まされてここまでこれたと実感しております。感謝。

19.02.11

私にとっての生涯の恩師である岡垣勇先生、5年前の2月8日が命日である。先生の没後、埋葬先が分らず墓参りができないでいたが昨年教え子の一人であるS氏から連絡があり、東京都小平市にある小平霊園、合葬墓地に納骨されたという情報を得る。毎年先生の命日近くに教え子の面々、わずか4名であるが先生の遺徳を偲んで都内で食事会を行ってきた。そのメンバーで 5年越しでようやく墓参、焼香がかなった。岡垣先生は北海道江別市の出身、北海道大学文学部卒業後上京、上智大学大学院に学んだあと、大学、高校の講師を行ったのち、英国シェフィールド大学ウィリアム・エンプソン教授に英詩のチュートリアル(個人教授)を受ける。帰国後山梨大学教授を経て退職後予備校講師、市川英語スクール主事などを歴任。生涯のテーマは世界に通用する高い知性を具えることであった。私は市川高校時代に先生に教えを受け、「人は何で生きるか?」というテーマを突き付けられ、以後生涯にわたり先生に教えを受けてきた。文字通り私の人生の指南役であった。「人生は闘いである」「哲学、宗教の行き着く先は文学であり詩である」「日本人で過去に本当の意味で知性を身に着けて人はただ一人、空海のみである」「日本語で考えたら迷路に陥る、日本語は情緒的で知性にはほど遠い言語である」「人間にとって最も大切な価値、それはこころの優しさである」・・・先生の住まいは床が抜けるほどの何万冊の蔵書があったが、先生自身は一行の文章も書き残していない。自分をひからかすことをもっとも嫌った。英国の貴族の生き方を模範とし、白洲次郎、吉田健一らと並ぶ日本のジェントルマンの一人だったと思う。先生からいただいた御恩ははかり知れず、われわれの残された人生でどれほど尽くしても間に合わないくらい偉大なものであったと弟子4人で語り合った

19.02.03

2月24日(日)午前10時より 例年のごとく 関口さん 指導のもと 味噌の仕込みを行います。8kg おけ込で 5000円

ただ今 参加者募集中です! 締切 2月13日 

藤城携帯 090-6107-1763 FAX 0479-84-3280 Eメール fujishiro@bg.wakwak.com  iPhon muraichi0207@gmail.com

連絡お待ちします。

19.01.31

今月も早や1か月が過ぎた。今年になってから依然として手のひらの化膿物は癒えないが、家族みんなが健康で穏やかに暮らしているのをありがたいと思う。妻も私も昨年末で会社との縁も一切なくなり、よく表現すれば自由の身となった。これからはすべて流れに身をまかせ、自然体で生きようと思う。こちらから仕掛けるのでなく、依頼されれば動くスタイルで当座は座して待つことにしよう。

19.01.12

会社を譲渡後、私は相談役として、妻は顧問として12月30日まで会社に在籍する契約になっていた。引き継ぎ事項のほとんどは終了していたが、年末最期の売り出しなど気がかりではあった。今回の緊急入院で、一切会社とは連絡はしない状態となった。店の店長と、新会社役員さんには何か不明な点があれば私のスマホに連絡をくれるようにとメールしておいた。結果私への連絡は一切なく、無事店舗運営も年末、正月とスムーズに稼働していた。今回の入院は、私の会社での役割を完全にシャットダウンするための環境作りをしてくれた天の采配なのだと思う。今まで50年間の仕事人生、そして経営をすべて整理し、もう一度頭をまっさらにする時間をいただけた貴重な時間と空間であった。まだ手のひらの皮膚は赤く剥けたままだが、口内炎、目の淵の炎症、などは一端収まったので退院の運びとなった。翌13日、家族そろって香取神宮へ初詣、今回は会社のお札は終了なので我が家用、「藤城一家」の名で「一家繁栄」の祈願をした。今年一年が無事、健康であるように、一家が栄えますようにとよどみなくお願いした。

19.01.02

昨年暮れに発病した不可思議な手の平の異常な腫物、一応の病名は「スティーブンスジョンソン症候群」の疑いということである。12/25の診察で一端治りかけたと思いきや、12月28日夜、再び猛烈な手指の痛みに襲われ、29日早朝5時30分妻に運転してもらい、旭中央病院緊急受付へ行き診察、幸い前回診断してくれた皮膚科専門医浦崎先生が担当してくれ、入院して治療することに決定した。一昨年、順天堂医院食道ガン以来の2度目の入院である。

2019年

18.12.26

1215日、順天堂医院に月に一度の飲み薬をもらいに妻と出かけたとき、前日の酒の飲みすぎからか足がふらつき身体がだるく感じた。

16日の日曜日、月に一度の掃除に学ぶ会に参加し、白浜小学校3階のひどく尿石がこびりついた便器の掃除を約3時間かけいつも通り素手で行った。多少体調をくずしてもこの10年、手袋をかけたことはなくそれでもなんとなかった。

翌日から37度の微熱がでたので東陽病院で診察を受けるもインフルエンザは陰性、単なる感冒だろうと解熱剤と咳止めを処方してもらう。その翌日からT氏らと約束してあった天草、熊本温泉の旅に出発、この程度の熱なら温泉にはいればなおるだろうと楽観。

しかし薬を飲み続けるが22日になっても微熱が続く。口の中が荒れて口内炎を起こしたので歯医者に行って塗り薬をもらった。このころから爪の間の指先、両手5本とも爪の上部5分の一くらいが黒ずんできて皮下充血の様相、びりびり痛く夜もよく眠れない。30年ほど前、右手中指先端の爪の中が化膿し、ヒョウソウの手術を受けたことがあるが症状がまったくそれと同じである。

23日は私が主催の門松を作る会があったので無理して行事をこなしたがその夜は38.5℃の熱、両手指先の痛み、口内炎による熱い飲食はとれず、ほぼ不眠状態。翌朝24日に旭中央病院緊急病棟にて診断、血液検査、胸部レントゲン検査など行ってもらい、抗生剤の点滴を受け頓服の薬をもらい帰宅後終日床にはいった。 

25日朝730受付開始と同時に旭中央病院内科へ受付、830浦崎医師問診後血液検査、造影剤によるCT撮影、皮膚科による診察、一応眼科でも診察してもらう。手、指、斑点状に黒く変色している部分の皮膚の検体切開。その他心臓エコーなどすべての検査を終え18時終了、抗生物質、頓服、顔、手塗り薬、目薬などをもらい帰宅、軽くフルーツを食べ、薬服用、3時間熟睡、びっしょり汗をかく。

急にからだが軽くなった感じ、パンパンにはっていた指先がいくらかスリムになり痛みもやわらぐ。体温計をあてると36.6℃・・・実に11日ぶりの平熱である。そのままその夜は熟睡できたのがうれしかった。

万病のもとは微熱が続くことというから今回、自分もいろんな可能性をじぶんなりに思いめぐらしてみたがその可能性として

@2年半前に手術した食道がんの再発または転移

A1年半前にみつかった左腎臓結石(石をとらずそのまま放置)による

B加齢からくる体力の衰えによる風邪か疲労

C1216日、トイレ掃除の際、便器に付着していた尿石及び汚れ落としを素手で指先を使い、サンドメッシュでこすってため爪の間から雑菌が侵入。

潜伏期間を経て、指先の化膿、指、手のひら、手首への静脈瘤へと飛び火、眼の粘膜にも転移、唇の裏側に口内炎として転移、目や口の粘着質部分に菌は飛び火した。抗生物質を投与することで鎮静したが、あまり地上に現れない悪性発熱、化膿性菌である。予防、手袋、消毒、治療、抗生剤、解熱剤、痛み止め。

安静、睡眠、といったところか 全治2週間の見込み。

 

18.12.12    「店主の一口一言」出版にあたり 「まえがき」

 今年8月末日をもって株式会社村市の企業譲渡を無事終結した。家業を継いで50年、妻とともに歩んで43年、会社創設より31年、村の市場東金店開店より18年目の現役引退宣言である。この間、一貫して食品小売業の道を歩んできた。決して平坦な道のりではなかったが、自分のやりたいことへ思いっきり挑戦して思い残すことはない。

 毎週1〜2回、新聞折り込みにチラシ広告を入れた。そのチラシのタイトルのとなりに「店主の一口一言」というささやかな一文を掲載し続けた。20054月より20189月まで約13年余の私がお客様へ伝えようとしたメッセージの記録である。

 妻からこれを一冊の本にまとめておいたらと言われ、自分にそんな尊大なことはできないと無視していたが、今この仕事から完全にリタイアする段になり、まあ妻の言うのも一理あるなと思い、出版の運びとなった。

 いくつか同じような文の繰り返しもあるがあえて割愛せず、そのまま残した。駄文だが、私はその一行一句に魂を打ち込んだつもりではいる。お店のありよう、店主の商売に対する取り組む姿勢をお客様に理解していただきたい。・・・というのが1点、わが社で働くスタッフ及びお取引先の方に、私の考え方を理解してもらいたいのが2点目、そして困難に直面したとき、過度に落ち込まないよう自分を励ますため、順調に事が進んでいるとき慢心して落とし穴に落ちないよう自戒するためというのが3点目、この一文を休みなく書き続けることでブレない自分でいられたのではないかと今思う。

 わがままで、強引に突き進んできた私を励まし、アドバイスいただいた先輩諸兄、ともに歩んだ現場スタッフの面々、お店を愛しご利用下さったたくさんのお客様、あらためて心より感謝申し上げます。                        合掌     村の市場 店主 藤城 吉雄  平成30年12月31日

 

18.12.06

今回株式を譲渡したグループ会社に招待され京都を旅した。東福寺の燃えるような紅葉に感動し、観光タクシーの案内で商売繁盛の神様でもある伏見稲荷大社に詣でた。この社は、関西以西の事業を営む人たちが遠く九州からも訪れるという。経営者はぎりぎりのところで誰にも相談できず判断を迫られる時がある。神という見えない力にすがる時がある。私と妻は無事事業を果たし終えた感謝と御礼の参拝であった。

18.11.27

友人のT氏に誘われ、タイの国チェンマイの寺院のお祭り「コムローイ」・・・数万個のランタンを一斉に夜空に舞いあげる宗教行事を見物がてらの旅をした。今回初めて出会った旅仲間の一人N氏は旅慣れた人だが無類の読書好き、暇さえあれば本を手にしている。彼いわく、今の時代、スマホとやらで物知りは沢山いるが、本を読んでる人は人間に深みがあって、つきあって楽しいとおっしゃる。なるほど読書することで人間の奥ゆかしさが出るのだなと学んだ次第である。

18.11.19

今回の私と妻の株式譲渡について、旧来の仲間が声をかけてくれ、見事に会社を終焉、バトンタッチしたことを「称える会」を開催してくれた。実に28名の参加者であった。日ごろから心から信頼しあっている、何の駆け引きも利害関係もない、文字通り素交の仲間たちである。何よりも嬉しかったのは先輩格である8才から15才くらいの年上の先輩が数名来てくれ、「同志」としてお祝いしてくれたことである。先輩たちの度量、経験、知識に対し、いつも敬うこころで接してきた。その事が先輩から可愛がってもらえた理由なのかも知れないと思う。

18.11.13

大相撲九州場所、白鵬、鶴竜2横綱休場で頼りの一人横綱稀勢の里が初日から3連敗、戦国乱世の時代にはいった。私は10年前、両国国技館に相撲を見に行ったとき、当時関脇だった白鵬を見て、この人の並外れた才能を感じた。以後、相撲界で双葉山と並び称される立派な横綱になってもらいたい、白鵬ならそれができると応援してきた。ところが彼がモンゴル出身であることが問題あるのか相撲界幹部は「やれ、かちあげはいかん、張り手はいかん、土俵際で駄目押しはいかん、・・・と重箱の隅を指摘します。朝青龍が土俵を去ってから一人横綱として頑張ってきた白鵬に対しての敬意は感じられず、スポーツ界では海外から人の流入が当たり前の時代、日本人以上に日本の文化と伝統を学び尊敬し、日本の国に骨を埋めようとする外国人を排斥する姑息な日本人がいるとは思いたくないと・・・相撲界を見て思うのだが。

18.11.07

昭和37年に卒業した中学校同窓会幹事を引き受け、案内状の送付と出欠の返信はがきの集計の仕事を請け負った。皆さんこころ優しく、前回開催した事例にならって行い、あまり突飛な企画はよく思われないことがわかった。私は仕事柄、絶えず新規の発想を心掛けてきたから、何かもどかしい感じがする。しかし、子いわく「60にして耳したがう」である。これからは自分を控えめに・・・。

18.10.30

社長を退任し、相談役となって2か月が経過した。なにが変わったかというと、決定しなくなったことである。日々、前へ進むか、退くか、右にゆくか、左にかじをとるのか、小さなことのひとつひとつ決めるのが習慣となっていた。その日に起きた問題はできるだけ明日に持ち越さないようにもこころ掛けてきた。今はこうしたらどうかとアドバイスするのみにとどめる。重さがまったく違うのである。

18.10.23

一昨年7月に私が食道がん、妻が大動脈かい離の大きな手術を同時に受けたことが今まで営んできた事業に終止符をうつ大きなきっかけとなった。わたしにとっては、大学を2年で中退したとき、千葉市おゆみ野店を2年で撤退したとき、そして今回の事業譲渡が終わりの決断を下した大きな場面である。前に進むときは勢いで行けるが、退く時期は孤独な自分自身の決断である。自分なりの美学がその根底にある。

18.10.15

株式譲渡から1ケ月半が経過した。取引先の方からこれからどうするのですか?と聞かれる。今のところ何も考えていないのが正直な答えである。ある意味、朝から晩までお店のことを考えていたから趣味らしいものも持ち合わせず、ただ1点、自分の世界を大事にしてきてその場所が泉の郷という拠点である。これからの人生の目標として「精神の昇華」を掲げたい。

18.10.09

十七世紀の禅僧に桃水雲溪という僧がいた。毎日托鉢に出てそれで食事をし、蓄えをまったくせず、少しでも食料が余れば乞食に施した。乞食生活は自らへりくだること、食物の好き嫌いを言わないことの二つの点で理想的な出家生活である。遊行と乞食生活こそ仏道の修行にふさわしい。−渡辺照宏「日本の仏教」より。私はここまでの覚悟はないが、これからの人生は自らの魂を純化させるための修行でありたいと願っている。泉の郷 庵主

18.10.02

先日、友人が月刊誌致知の編集長の言葉で「人生の法則」という一文を送ってくれた。その中に「三十年で得た気づきは、人生は何をキャッチするか、キャッチするものの中味が人生を決める、ということである。同じ話を聞いても同じ体験をしても、キャッチするものの中味は千差万別である。つまり人生は受け手の姿勢が問われる。ということである。そしてキャッチするものの質と量は、その人の真剣度に比例する」と。私も会社を営んで31年経過し、ひとつの区切りをつけた。感慨深いものがある。泉の郷 庵主

2018年