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麻をたずねて

                                             藤城  吉雄

 最近、匝瑳群誌をひもとき、我が住む町の古代の歴史叙述の数行に興味深い記述を見出しました。 第二節    国造時代   の一文より…

 神武天皇の時、天太玉命の孫 天富命を阿波に遣わし、麻穀を種へしむ。天富命 更に沃壌を求め、阿波の斎部を率ひて東国に至り、土地を拓殖し播種を務む。其の麻に宜しき所 之を総(ふさ)の国と名づけ、穀に宜しき所 之を阿波の国と名づく。蓋し安房は阿波より出て、其の本義は粟なればなり。又 古語に麻を称して総(ふさ)と云う。又 安房斎部氏本系帳に、美麻の生ずる所之を狭布佐(さふさ)―匝瑳(さふさ)郡―と名づくと布佐の言たる麻にして、狭布佐は即ち眞麻(さふさ)なり。之に由りて之を観れば、本郡は総国(ふさのくに)に於ては最も美麻の生ずる所にして其の開けたること蓋し久遠ならん。只だ、大和朝廷より遠きの故を以て未だ王化に潤ふに至らざるのみ。云々……

 

 古代のいつごろであるのかは確定できませんが、房総の地の北半分位、かなり広い地域に亘って麻が栽培、生産されていたものと思われます。広大な北総台地での麻の生産、その中でもとりわけ匝瑳郡(さふさのこうり)で作られた麻こそが、秀でた麻であったと史書は語っております。強い繊維質を持った麻が、衣服や道具として当時の生活に欠くことの出来ぬ品であったに違いありません。特に麻は祭り事、縁起物の一品として現代に至るまで日本人の生活に深い関わりを持ち続けてきました。

されば現代日本のどの地域で麻が栽培されているのだろうか……?素朴な疑問が湧き起こると同時に、もう一度さふさの地で麻の生産を復元できないものだろうかと考えました。

むらむらと探求心が起こると早速行動です。平凡社「大百科辞典」で「麻」「大麻」の項を調べてみると栃木・長野・広島・熊本県で栽培される…とあります。商工会の鈴木さんにお願いして、栃木、長野県のそれらしい商工会に問い合わせて、麻の情報をとってみてくれるよう頼みました。

そんな折り、女房の実家のお母さんに、何か麻についての手掛かりを尋ねますと、「五月二十日頃、NHKのテレビ番組「昼どき日本列島」の放送の中で麻の事をとりあげていたよ…」

と申すのです。「しめた。」と私は思いました。すぐさまNHKに問い合わせましたところ、NHK福井放送局が取材した番組であるとの返事です。続けて福井に電話を繋ぐと「麻の繊維を和紙にすき込む」内容の番組であって、詳しくは福井市今立町にある「越前和紙協同組合」に聞いてくれとの事でした。0778(43)0875のダイヤルは、あいにく土曜の午後のため繋がらず、月曜を待って電話したところ、「福井で麻は一切栽培しておらぬ、今回の麻は栃木からとり奇せた。」と福井弁まじりで、栃木県の麻卸し業者「高山商事」をご紹介下さいました。目標は近いと直感しました。わくわくしながら0282(82)0045にダイヤルしますと、高山社長さん、「確かに栃木県で麻を栽培し、作っている。」とのご回答です。丁度一週間後の七月二十日土用の入りぐらいから刈り入れが始まる…とのことです。「麻に関することなら何でも教えて頂きたい、是非一度お会いしてお話しを伺いたい。」と申し入れました。先方も突然の電話で縁もゆかりもない千葉の人間からの頼みに、一瞬戸惑った様子でしたが、匝瑳群誌にある麻のこと、まだ麻の樹を一度も見たことが無いことを記述し、私の名刺のコピーと一緒にFAX送信しました。翌日、高山社長さんに「十九日か二十日のいずれかに逢って頂けないだろうか、こちらからは町商工会ふるさと産品造りのメンバー三名位でお邪魔したいのですが…」とお願いすると、「七月二十日午前中なら時間が取れる。できれば麻畑を案内しましょう。」と快諾して下さいました。                        

早速、商工会指導員鈴木さん、ネットワークプロジェクト社長の二人に誘いの電話をしましたら、二人とも都合がつかず行けないというので、自分一人で栃木県壬生(みぶ)町を訪れることに決めました。丁度十九日、二十日の二日間、店の休業日でしたので、栃木県の観光案内を購入し、旅の準備をしました。

十九日、日曜日午前十一時、我が家を車で出発、東関道、東北自動車道を経て、栃木インターを降りたのが午後二時半でした。宇都宮の手前の壬生町まではここから30kmほど、予約してある壬生のホテルにはいるのはまだ早いので、栃木市郊外にある大平山に立ち寄り、頂上近くにあるアジサイで有名な大平山神社に参拝しました。ウォーキングを楽しむ親子、団体で山は賑わっておりました。下山後、目的の壬生町へと向かいます。時計を見るとまだ4時、陽も高いので街周辺を巡ってみます。

壬生町歴史民族資料館を見つけ、はいってみました。古墳群が発掘されることから、古くからこの地に人が住みついていたこと、1469年、壬生綱重が壬生城を築いて以後城下町として栄えたこと、江戸時代(1712年)、近江(おうみ)の水口(みなくち)から壬生城主として迎えらた鳥居忠英(とりいただてる)は、名君で「干瓢(かんぴょう)」の種を近江から持ち込み、大いに産業を興すと同時に京文化を伝え、藩校である「学習館」の開設など、壬生藩の基礎を創った人物だと説明書きがありました。干瓢は現代でも栃木県の有名な産品であり、壬生市内に鎮座する雄琴神社に今も伝わる八坂神社御祭礼、屋台引き廻しは鳥居候による京文化移入の名残りかと思われます。

館内には、干瓢の出来るまでの解説があります。が、その一角に「麻」に関して事細かく説明しているのを見つけました。「麻の出来るまで」「麻作りの工程」「壬生町と麻」…写真、実際に使用していた道具なども一緒に展示して、分り易く解説してあります。壬生町でも江戸時代から広範囲に麻は作られていたのです。下駄の鼻緒、ロープ、弓の弦など、麻の需要は多かったのですが、化学繊維が出回るようになった昭和四十年頃から急速に生産は減り、現在ではほとんど作られていないと説明があります。但し、大芦川、永野川流域の鹿沼市、粟野町の一部で麻は作っている…と書かれていました。「そうか、鹿沼土で有名な鹿沼で麻を作っているんだ。日没までは時間があるから一目麻の樹を見てみよう…。」資料館を後にして、車を鹿沼に向かって走らせました。麻は二mくらいの背丈と聞いていたので、道の両側を注意しながら見るのですが、背の高い作物といえばトウモロコシ畑か、セイダカアワダチソウの荒地かで、それらしい作物は見つかりません。そのうち、鹿沼市内にはいってしまったので、市内からちょっとはずれた田んぼのあたりで農作業の帰りと思しきおばちゃんに「このあたりに、麻畑はないか?」尋ねてみますと、「ワシらが嫁にきた頃は、ここらは麻畑でいっぱいじゃった。でも今はここらでは作ってネエ、たぶんナガノの方にゆけばあると思う。」と言って、永野と思われる方向を指差してくれました。一瞬、長野県の長野と勘違い、すぐ資料館に書かれた永野と合点しました。

地図でみれば、一山越えた向こうの町、今日のところは、麻畑を見るのはあきらめて、予約してあった壬生市内のホテルにたどり着きました。ホテルのご主人に、「明朝、高山商事の社長さんと逢う予定だ。」と話しますと、その会社は、運よくホテルとは目と鼻の先に位置している事が分りました。

七月二十日の朝がやってきました。昨夜、高山商事社長さんに電話で連絡を取り、九時三十分に逢う約束をしておきました。旧家を思わせる庭造り、母屋から通りに面したところに事務所がありました。やや小太りの高山社長さんが笑顔で迎えて下さいました。事務所には二人の美しい女性事務員さんと、初老の男性が一人おりました。私が麻に興味を持ったいきさつ、高山さんを知り、ここまで来るに至った経緯を手短に説明しました。

高山商事さんは、麻の加工、製品化、座敷ほうき、盆用品など、地場産品を材料に製品化し、全国に出荷している会社との説明をたまわり、「麻(お)がら」などを組み合わせた「お盆セット」が、今、月遅れのお盆に向け出荷の最盛期とのこと、今日も祭日(海の日)だが社員全員出社して仕事をしているとのことです。今日は私のためにわざわざ時間をとって下さり、あらかじめ連絡をとって、隣りに座っている麻の集荷業を営む「石川さん」を案内人として呼び寄せてくれていたのです。事務員のお話では、「子供のころ、麻畑でよくかくれんぼをして遊んだものです。麻畑の中にいると一種の陶酔状態になり、畑から出てきてもしばらくは頭がクラクラしたものです。」

続いて石川さんの説明、「植物の状態では大麻と言い、刈り取った後、茎の皮の部分が麻、麻を剥いだ残りの茎を麻(お)がらとよびます。大麻は三十年くらい前に品種改良されて、現在の大麻には全く麻薬性が除去されています。麻畑に入るとクラクラするのは改良前の大麻畑だったからです。また、大麻の栽培は「大麻取締り法」の厳重な監督のもとに置かれ、種の入手から、成長した大麻の麻薬性の有無の検査、間引き、刈り取り後の大麻持ち出し禁止など様々な厳しい制約があります。最近では麻の需要が減ったのと、安い中国産の麻が大量にはいってきて、麻を作る人もほとんどなくなり、後継者は皆無に等しいのです。…」と。

「それでは、麻畑に行ってみましょう。」高山社長に促されて、石川さんの車で三人で事務所を出発しました。行き先は、「永野」―石川さんの奥さんのお兄さんが営む麻畑、日光連山のふもとにある粟野町の標識を目標に約三十kmの行程、と石川さんは運転しながら説明してくれました。麻薬性をもった大麻の時代には、大麻の葉の泥棒が沢山いて、麻畑には必ず番小屋があったそうです。だんだん車は山合いに進んで、壬生を出て四十分ほど経ったころ、運転をしている石川さんが左前方を指差し「ほら、あれが麻畑ですよ。」と教えてくれます。身を乗り出すように目を凝らして見ると、蕗(ふき)のような、細い竹薮のような濃い緑がびっしり群生した植物がありました。「ああ、これが麻……でなくて大麻なんだ。」初めての大麻との出会いに心ときめきます。刈込みが終ったばかりで束ねた大麻を寝かせた畑、数日前に刈った大麻を天日干ししている畑のいくつかを通り過ぎた後、石川さんは畑の側に静かに車を停めました。

左奥の方に大麻の刈り取りをしているお百姓さん夫婦の姿がありました。車を降りて、畑の中にはいると、石川さんの親戚の「池澤孝男」さんとご紹介がありました。大麻の葉を落とすための日本刀のような道具を右手に下げている池澤さんと挨拶を交わし合った時、池澤さんが古武士ように見えました。猫の手も借りたい麻の繁忙期だったようですが、この後、池澤さんはていねいに応対して下さったのです。

「今年の麻は五月の高い気温のため、根腐れを起し、追肥などで対応したが今一つの出来である。こうして葉を落として束ねた大麻を、100度Cの熱湯で釜茹でし、三・四日陽に干す。この一連の作業はちょうど土用のさ中に、手早く行ねばならないのできつい仕事である。収益もさほどよくないので、後継者はどの家も居ない。国内では岩手、群馬、長野、栃木の一部で作っているだけ…、今では全国あわせても100町歩にも満たない位の作付けである。栃木県だけで全体の約70%を占める。私のところは4反歩、婆さん(妻)と二人でやっているがせがれは全くやらない。大麻の栽培には、お役人の厳しい監視と検査、種の入手に始まり、堆肥造り、真夏の猛暑の中での、刈り入れから釜入れ、天日干しの一連の重労働、最後に熟成、醗酵させて表皮を剥いて麻を採る。その行程は、米造りが八十八なら麻は百と言われている程手間のかかる作業である。

まず、県から栽培の許可を取り、農事試験場から種を分けてもらう。大麻は化学肥料では出来がよくないので、裏山の広葉樹の落葉を掻き集め、牛糞とまぜて一年以上寝かせ、完熟有機の腐葉土を作っておく。この堆肥を入れた畑に四月上旬に、10Cm間隔に播種、発芽後間引き、消毒などの手入れをして、土用の入りに刈り取り、その後の釜茹は熱湯を使用するので細心の注意と体力が必要。続いての天日干しは、夕立、雷の多い時期だけに目が離せない。私のところでは専用のビニ−ルハウスを確保して、そこに干している。最後の熟成が最も難しい作業で、醗酵の種になる大麻の葉を入れ、気温、湿度のあんばいをみながら、人肌ぐらいの温度で熟成させる。この作業は酒造りの杜氏(とうじ)のような大変な熟練を要する。ここが上手く出来れば、光沢のある強い麻が完成する。」……麻の刈り取りの手を休め、池澤さんは事細かに麻の説明をして下さいます。

「家にゆきましょう。」池澤さんに促されて、麻畑から五十米程歩いて、母屋に上らせていただきました。いつの間にか、池澤さんの奥さんは畑から上がってきていて、お茶を入れて下さいました。戦前からある典型的な農家の造りでした。「日頃はあまり人と口をきかない。」と言っていた石川さんの言葉とは裏腹に池澤さんは饒舌でした。

「麻の葉のデザインは、産着(うぶぎ)にも取り入れられて強く丈夫な子に育つようにという願いが込められています。また、麻は成長するごとに葉の数が、一枚、三枚、五枚と奇数で増えてゆきます。神事で七五三とか奇数が縁起が善いとされているのは、これからきているのです。だいたい十一枚が完成された葉です。以前は、下駄の鼻緒、漁船用のロープ、蚊帳(かや)の原料としてなくてはならない物でしたが、化学繊維が出回ってからは、和弓の弦、横綱の注連縄(しめなわ)、神事、仏事用など、ごく限られた所にしか需要がありません。しかも、安い中国ものに押されて、労力ばかりかかって採算の合わない麻造りは見放されるばかりです。この永野地区では三十戸位の農家が麻作りをしていますが、いずれも私のような高齢者ばかりで後を継ぐ者はどこにも居ません。あと二十年もしたら、国産の麻は消滅するでしょう。大麻の栽培はどうにかできるでしょうが、釜茹で、乾燥、熟成、醗酵、皮むきの一連の作業は非常に熟練を要するので、本当のつやのある強い麻は生産できなくなるでしょう。数十年前に中国に麻作りの指導に行きましたが、その中国に今では日本の麻が席捲されてしまったのですから皮肉なものです。」

池澤さんは立ち上がって、押し入れから去年作ったという「麻」を取り出し、机の上に置きました。それは黄ばんだと言うよりも黄金色(こがねいろ)に輝く美しい池澤さんの麻でした。肌ざわりは、しっとりとつややか、引っ張てみるとキュと音をたてるような、力強さと粘りが感じられます。その色と艶には気品がただよい、麻のぬくもりが手のひらに伝わってきて身震いするような感動がありました。池澤さんは、お土産にと言って、和紙に包んで渡してくれました。私は「家の神棚に捧げ、長く家宝として大事にしたい。」と申し上げ、気持ちよく頂戴いたしました。この時、栃木まで来て本当によかったと思いました。

そんな話しをしている間、テーブルにはそうめんがならんで、食事の用意までして下さいました。先程まで畑を駆けまわっていた池澤さんの奥さんが、野良着のまま、あっという間に食事の支度をして下さった…、忙しい中、事細かに麻について話しをして下さった池澤さん夫婦のおもてなしの心映えが感じられて頭が下がりました。

そうめんを食べながら、昔は大麻泥棒が多くて番小屋があったこと、今でも大麻の麻薬性を調査する抜打ち検査があること、大麻の熟成は、気温、湿度、風の具合で微妙に変化し、熟成温度、醗酵時間を長年の勘で調節しなければならない高度な技術であること、池澤さん自身この道四十年以上になるが、まだ本当に納得できる麻は作れてない…などのお話をいただき、有意義、且つ豊かなひとときに感謝の意を表して池澤さん宅に別れを告げました。

帰路、車中から麻畑を発見するごとに、日本でこの光景が見られるのはあと何年なのだろうか…と思うと感慨深いものがありました。高山社長さんがつぶやきました。「卑弥呼の時代ころから国の指導者は大麻のもつ陶酔、神懸かり的要素を見抜き、祭祀の器物として重んじたのではなかろうか? また人々を苦難から救済する一助として大麻を用いたのではないだろうか…。」   麻とは不思議な植物だなあと思います。

今回、はからずも、高山社長さんとのご縁で、石川さん、池澤さんとの出会い、麻についての詳細な説明、体験談をうかがうことが出来、思わぬ歓迎、接待をいただきました。池澤さんからいただいた「麻」、高山さんから戴いた栃木産の干瓢をしっかりと抱いて帰路につきました。

伊勢神宮に献上する「塩」は、神官が伊勢湾から汲んだ海水を釜茹でして作る習いになっているそうです。そうした神事を二千年の長きに亘って連綿と続けている…。同じように神事に欠くことの出来ない麻、その麻があと数十年で消え去ろうとしている…。やがて日本の社寺には中国産の麻が献上されるのかと思うとやるせない気がします。神社庁あたりが中心になり日本の麻作りを保存、継承できないものだろうか。もっと言えば、「さふさ」という誇り高い地名をいただいた匝瑳の地でこそ麻を復活継承してゆくべきだと思います。日本の生活、文化と深い関わりを持ち続けた「麻」、下総、上総、匝瑳の語源である「麻」、その麻をわれわれの手でひとつの植物としてでなく、文化、誇り、心の支えとして守り育ててゆかねばならない、そうあって欲しいと念願します。たまたま、私の母の名が「ふさ」であり、麻とのふしぎな縁が私の魂をよびさまし、われわれの先祖に駆り立てられる思いでこの一文をしたためました。

この約一ヶ月後、八月十六日、十七日の二日間、お盆休みに群馬の奥にある草津の温泉に家族で休暇をとりました。渋川から白根山に向かう道すがら、何とはなしに、あの永野の風景に似ているなと感じていました。吾妻(あがつま)町、草津の町中にある白根神社のご祭神である大和武命…、古事記の中に登場する詩人であり、猛き武将であった大和武命もこの道を歩んだのか…弟橘姫(おとたちばなひめ)を想い、「あがつまはや…」とつぶやいたのは、この道中であったのだろうか…。

  十七日朝、宿を出て渋川に向かう途路、何の気もなしに吾妻町の農産物直売所に立ち寄りました。妻が新鮮な野菜や花を買い求めている間、私は野菜の片隅にある麻がらをみつけました。ひょっとしてここでも麻を作っているのでは…?直感がひらめいたのです。レジを打っているおばさんに麻のことを尋ねると、「確かに麻を作っている。この土地の宮司さんである海野恭斎(うんのきょうさい)さんが麻作り保存会を組織し、日本の麻を守っていらっしゃる。」との返事。偶然というよりも神の啓示かと思われました。早速電話帳をお借りして

海野恭斎    群馬県吾妻郡吾妻町岩下一五八二   TEL 0279(67)2441

とメモ書きし、とりあえず帰宅を急ぎました。その夜海野さんに電話すると八十八歳とは思えぬ張りのある声、宮司さん自身は麻作りはしないが、「四戸の農家に頼んで、自分の土地四畝ほどに細々と作っている。宮内庁からの依頼で大嘗祭に使うための麻を十月に納める。丁度、八月二十日から二十五日まで吾妻町 三島の鳥頭(とっとう)神社 社務所にて麻の皮ひきの行事がある。二十四日(月)には、宮内庁からビデオ撮りに来るので是非見にいらっしゃい。」との事。「今なら麻作りの技術を伝承可能だ。」との心強い返事を戴きました。有り難いことです。近々にお会いし、麻についてお話を窺いたい旨を話しますと、「私も歳だからすぐ忘れる。手紙で詳しく内容を書いて送ってくれるように。」と申されます。次の内容の手紙を送り、私の麻をたずねる旅の序章をひとまず終ります。

                                 

 

拝啓

  初秋の候、ご家族皆々様ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

この度は突然お電話をさしあげ、ご指導たまわり有難うございました。

 

  私、別紙の通り、自分の生まれた土地の祖先に思いを致し、匝瑳郡誌に端を発し、本年六月ごろより麻の栽培から製品までの経路と実状に興味を持ち、自分なりに調査を重ねてまいりました。たまたま草津温泉の帰路、吾妻町農産物直売所に立ち寄り、ご当地で海野宮司様が麻作りを守り継承されているのを知り、本当にうれしく存じました。

願わくば、千葉県のさふさ(匝瑳)の地に、麻作りの伝統をご伝授いただける日の近いのを心から願う者です。

大東亜の戦いに敗れて以来、文明の発展と同時に、日本の伝統、文化が急速に廃れ、最も大切な民族の誇りすら失いかけている現状をみる時、日本の神事、仏事に欠くことの出来ない「水」「米」「塩」そして「麻」などを作る自然界と技術とが息も絶え絶えになりつつある時、せめてこうした品だけでも、日本人の手で造り、奉り、後世に伝えてゆかねばならないと思うのは私ばかりではないでしょう。合理主義、経済性ばかりがまかり通る時世であればこそ、人間の依って立つ基本である「誇り」を見直すべき時でもあります。

そうした意味でも「麻作り」を日本の国から無くしてはいけないと思うし、自分らの力で伝承してゆけたらと考えております。今後ともご指導、ご鞭撻のほどお願い申し上げ、初めてのお便りとさせていただきます。                                     敬具

                                                     平成十年八月十七日

                                          下総の国住人          藤城   吉雄

  海野  恭斎様