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熊野神社の(もり)と私

熊野神社改修工事等五ヵ年計画完成に寄せて

                藤城吉雄

少年時代の熊野神社及びその周辺は私にとっての遊び場であり、同時に自然から学ぶ学校でもあった。鎮守の森はチャンバラごっこの格好の場であり、杉鉄砲や、弓、木刀などを作り、あるいはかすみ網をかけて小鳥を取ったり、山グミ、野いちご、桑の実、椎の実を食べたり、小川でドジョウやエビガニを取ったり、クワガタ、かぶと虫を追い求め、夏はヤンマ、秋は赤トンボを追いかけ、文字通り大自然そのものに包まれて日が暮れるのを忘れて遊びまわったものである。

 父母は神社の近くの畑で夏はさつまいも、冬は麦を作り、家庭菜園もそこにあって真っ赤に熟したトマトのおいしさは今でも覚えている。野菜の初物ができると、母は熊野神社の隣にある天王さまによくお供えしたものである。

また、神社のすぐわきに一町歩ほど私の家の山林があって、十月下旬ころになると、松の木の枝打ちをし、下草、茅を刈り、釜戸と風呂の燃料として、刈り込み、運搬、納屋への収納を手伝った。そんな生活も小学生半ばまでで、世にプロパンガスが出回るようになり、農家の熱源は次第に、練炭、豆炭、プロパンガスへと移行していった。同時に山に人がはいらなくなり、下草はもちろん、篠竹、(つた)(かずら)、藤づるも伸び放題、山林は荒れるに任せた。

それから約三十年、松枯れ病により、数百年を経て神社の主木をなしていた松の大木も次々と枯れ、鎮守の森はジャングル同然となり、荒れたまま放置された。

以前からこうした状況がまずいとは感じていて、十五年ほど前、杉、ヒノキの苗木を数百本寄贈したことはあったが、その苗木がどう管理され成長しているかも全く無頓着であった。十年ほど前、近所に溝手さんという方が越していらっしゃり、何かのご縁で神社の森と浅間神社に抜ける参道の話をしていると、「この道は追剥ぎが出てもおかしくない道だ、この森は単に(やぶ)で、本来の森は下枝が刈られ、木々が間引きされて、程よく木漏れ日が差し風が通り抜ける状態が理想なのだ。」と教えてくれた。

「追剥ぎの出る道」という言葉は私の耳に引っかかり、何とか子供のころのあの神社の森の状態まで取り戻せないものだろうかと考えた。

実際に森にはいってみると、篠竹が鬱蒼と茂り、ほとんど前に進めない状態、しかも、藤ヅル、蔦が木々にからまり、(こずえ)にまで達した木はもはや瀕死の状態または枯れて倒木となっていた。このまま放置すれば、数十年の木々はことごとくやられてしまうと判断される。私は仕事の合間をみては、のこぎりを片手に森にはいり、木々にからまるツタを片っ端から切り始めた。驚くなかれ、藤ヅルにいたっては、直径十センチくらいの巨木が椎の木にからみついている。これを根っこから次々と切ると、藤ヅルは大蛇のように見え、まさに素盞(すさのお)鳴尊(のみこと)八俣(やまた)大蛇(おろち)退治とはこのことかと思った程である。

こうした時期に、妻が、「お父さん、この間テレビで和歌山の熊野の森の山守のドキュメント番組を放送していたよ。何かの参考になるかも・・・」と教えてくれた。

和歌山と言えば紀伊の国、語源は紀の国、木の国、まさに日本の原始の森、また熊野神社の本家熊野本宮大社のある場所である。

正直、私もこれからどう山を管理し、育てていけばよいのか具体的方途は全くわからなかった。(わら)にもすがる思いでNHKに電話し、その番組の主人公の住居地を聞いた。

その番組の題名は「森に()むなり」・・・住所は和歌山県東牟婁(むろ)郡熊野川町畝畑、名は野尻皇紀(たかのり)さんであることがわかった。早速連絡を取るとその番組をビデオに収めたものがあるから送ってくれるとのことである。平成九年八月二十日にNHK教育テレビで放映されたものであった。

ビデオを食い入るように見ると、父の代から熊野の森の山守の仕事に携わっており、自分の山も持っているが、現在、藤田観光の社員として七百二十町歩の山林の管理を任されて、奥さんと子供さん三人、そして母親と人里離れた飯場のような住いに自給状態で住み込み、山の暮らしをしている様子が写し出された。イノシシを狩猟し、滝ツボにもぐって魚を捕り、山草を食べ、薬とし、山にはいっては、カズラの類を落とし、枝打ち、間引きの作業をして広大な杉、ヒノキの森を管理している。森林不況のあおりを受けて、山は荒れ、後継者がいないことを(うれ)いておられたが、文字通り森とともに生き、森と一体となって生活する様子がそこに表現されていた。

これに先立ち、宮川熊野神社にも氏子総代会の外郭団体として、平成九年六月七日伊藤信一氏を会長に熊野神社「社友会」が結成された。私もメンバーの一員に加えていただき、熊野神社周辺を整備、管理する業務に加わらせていただいた。

この社友会の結成記念に企画されたのが同年十月二日から二泊三日の旅の熊野三山(もうで)である。私も参加を申し出で、同時に宮司にNHKの話をし「この機に熊野の山守野尻皇紀(たかのり)さんをお招きし、山を管理する方法をお話していただいてはどうか?」と提案した。宮司はひとつ返事でOKを出してくれたので即時野尻さんと連絡をとり了解の返事を頂いた。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を参拝、那智の滝、熊野の川下りを楽しんだのだが、二点新しい発見をし、目が開かれた。

一点は、元来の本宮大社は熊野川の中洲に鎮座していたが明治二十二年の熊野川の大洪水で流失し数百メートル離れた現在の地に遷座したというのである。明治政府の富国強兵政策により、熊野川上流の木々を大量に伐採したため、神の怒りでそのような事態が起こったとの説もある。

二点目は、神仏習合の流れで、この熊野の地で一遍上人は大悟せられ、全国に布教の旅に出られたということで拝殿に一遍上人像が祭られているのも不思議であった。

 神社にとって、森はどれほど大切なものであるか・・・『から(もり)そして(やしろ)の文字のいわれを考えると、古人の知恵の深さに驚かされる。例えば大和の日本最古の神社と言われる大神(おおみわ)神社は三輪山がご神体である。原始日本神道の信仰の原点は山そのものを(まつ)ったと考えられる。

 宿には作業衣のまま野尻さんが駆けつけてくれ一時間ほど山の管理について朴訥な言葉で話してくれた。「本来の森は杉、ヒノキではなく、太平洋岸に生息する照葉樹林が最も望ましい自然の森であること、柏、椎、ナギの木を主木とし、中間にツバキ、サカキを植え、下に千両とかを植えるとよい、枯れ枝等はかたづけずそのまま放置し、あえて堆肥を入れる必要はない、ツタ、カズラ類は早く切落し、真竹、篠竹はすべて切ること、適度に間引きし、下草にこもれ()が落ちるくらいが最適の状態、これを維持できるよう或る程度主木が成長するまで下草刈りを行う必要がある。」など森での生活方法を含めわかり易い内容であった。

 光町に戻って再び、根気よくツル類を切落す作業を続けた。それ程この森の中はひどい状態であった。

 明くる平成十年、私の経営する村の市場の裏の駐車場奥に植木畑がある。そこには伊東在豊園が植栽した直径十pから二十pのクスノキが百本前後植えられていた。盛夏八月の半ば、突然大型ユンボがはいり、次々とクスノキをなぎ倒しているではないか!!・・・一瞬私の脳裏をかすめたのは、この木を熊野神社の森に植え替えられないか?と言うことであった。

伊東さんに電話をすると、この太さの木は今なかなか売れず、管理費のみかかるので切り取って地主さんに畑として返還すると言うのである。私は神社関係者に訳を話し、神社への移植の提案をしてみるので作業を中止してもらえないかと提案した。

 すぐさま、藤城(ふじき)宮司さんの元に走り、「常緑広葉樹林の中でも最もよく繁茂するクスノキが捨てられようとしている。今がチャンスと思うがどうか」と申し入れる、と言うよりも嘆願する気持ちで提案した。

 藤城(ふじき)宮司は、総代会を至急開き協議する旨で快諾を得た。実は熊野神社は森に限らず社殿屋根のトタンのペンキは剥がれ、雨漏りする最悪の状態で、すぐにでも修復が迫られていたのである。

 とりあえず、植木畑のクスノキはそのまま来春まで残してもらい、植栽に備え神社西側の藪にユンボを入れ主木を残して更地(さらち)にすることにした。残暑厳しい八月二十日から一週間かけて、神社西側を切開き、あわせて東側に工事用の山道を切り抜いた。

 求める気持ちが強いと良い情報は向こうから飛び込んでくるものである。九月十五日付産経新聞朝刊に「心の時代『本物の森』への渇望」と題し「鎮守の森は地域の人たちの触れ合いと伝統文化の継承の場であり、最も身近な緑の環境であった。」と説明があり、「明治神宮の森八十年」と副題があって全国からの献木により荒地に植林された循環の天然林と中井沢氏の明治神宮の森ができるまでの解説があった。まさに自分たちがこれから始めようとするお手本が明治神宮の森であったのである。

 早速、明治神宮中井沢さんにお電話し、明治神宮の森の建設の足取りを綴った「大都会につくられた森」を取り寄せ、近い将来研修に行きたい旨をお伝えしたのである。

 八月三十日熊野神社役員会が開催され、十月八日秋の例大祭の日に総代会に於いて全員一致で改修工事を行うことに決議した。

 十二月二十三日歳末も押し迫り、工事委員長鈴木千司以下十三名参集し、初顔合わせ、今後の工事、募金方法等の話合いを行う。全員が「ご神徳のおかげさまで」の心で五ヵ年計画をまっとうしようと誓い合う。その場で熊野神社改修五ヵ年計画趣意書が発表される。

 明くる十一年二月三日節分の佳き日を選び改修五ヵ年計画事始め工事安全祈願祭を執り行い、同時に寄付金の募集を開始する。「氏子八百五十戸、一戸平均五万円、総予算四千五百万円、寄付金は五ヵ年年賦とする」を目標に一斉に募金開始。三月末日集計時、約五千五百万以上の寄付が寄せられる見込み、感謝。

 兼ねて連絡をとってあった明治神宮の森見学会は四月四日桜花満開の時期と決定、宮司より、依頼書を送る。神宮の森の研修後、宮司の畏友(ほし)(なみ)宮司の千葉市登戸「登渡(とわたり)神社」を表敬訪問するコースをとった。当日は晴天に恵まれ、宮司以下工事委員十四名はバスにて明治神宮参拝、中井沢氏より神宮の森の生い立ちと今後の展望について説明を受け、森の中を案内していただく。創建当時、総理大臣であった大隈重信は伊勢神宮のごとき杉、桧の森をと主張したが、林学博士本多静六氏らは、断固この意見を入れず、自然循環の天然林を造るべきとの見解を示した。この慧眼は見事に花開き八十年後の今日、大都会に作られた世界でも稀に見るすばらしい森林となっている。「百年後を見据えた森造り」は以後我々工事委員の合言葉となったのである。またここで学んだ言葉に、庭の一本の木も神社に移植した時それは「ご神木」となるということである。

 帰路登戸神社にて登渡(とわたり)会の皆様より大歓迎を受け、桜咲く境内を散策、数年前に改修工事を終えた寄付者芳名簿の掲示板を参考にさせてもらった。これがご縁でその後も登渡(とわたり)会の皆様とは兄弟社のように交流を続けさせて頂いている。

 明治神宮の研修は我々が今後五年間どういう形で改修を進めるかを具体的にイメージすることができ、やれるという確信と工事委員全員の意識がひとつになったという点で大きな成果があったと思われる。

 同四月移植を待っていたクスノキ六十五本は伊東在豊園の献木により一本一本麻で巻いて丁寧に神社西側の森に植え込まれた。やがてこの森の主木になる木たちである。

 工事委員数名より、まず拝殿修理が一番、次に社務所建設、参道修理、そして最後に境内林で仕上げようとの提案があり、全員賛成、相見積もりの後、五月十八日、堀江建設工業により拝殿大改修が開始された。土台に始まり、柱、天井そして屋根とすべて天然木を素材とし、暑い土用をまたいで作業は進められた。屋根は銅板葺きとし、柱、彫刻等は旧来のものをそのまま生かした。十月八日、第一期工事終了引渡しが無事行われ、昭和四十年以来の三十三年振りに修復は完了した。

 こうした氏子を始め宮司一丸となっての整備事業の取り組みは千葉県神社庁にも聞え、推薦により、十二月一日、我らの宮川熊野神社は海匝管内初の神社本庁指定、第九期モデル神社の指定を受けたのである。

 翌十二年、第二期工事として社務所の建設に向け、まず相見積り、原方の加瀬建設がこれを落札した。社長の加瀬正義氏が「氏子の一人として精一杯やらせて頂きます。」と強い決意で述べられたのには一同感銘した。この工事も一期同様採算度外視で、献身的に工事に当ってくださり、七十二畳の立派な社務所は完成し、秋の例大祭に引渡し奉告祭が執り行われた。この際、工事委員の一人である伊藤信一氏より「境内林周辺に河津桜を植えてはどうか。」との提案があった。全員「それはいい。」ということで早速伊豆河津町と連絡を取り、河津町の造園屋さんを通じ翌春五十本の河津桜の苗木を予約した。

 明くる十三年第三期工事開始、神楽殿及び旧社務所の修繕、参道整備の工事、總武建設の指名にて請け負っていただく。併せて水洗トイレの設置、拝殿ガラス障子のはめ込み等細かな修復、修繕を行う。

 同年四月二十八日「みどりの日」を記念し、神社西に真榊の苗木百本を植樹する。また予約してあった河津桜を神社南と東側に植栽、また氏子数十名から、しだれ桜、(けやき)、桧などの苗木が続々と献木された。以後熊野神社では四月二十八日「みどりの日」を植樹の日と名付け年中行事の一つとして加えた。

 五月六日、私は三日の休暇をとり、念願であった熊野の野尻さんの家を訪ねた。野尻さんの家族そろっての山菜と川魚の家庭料理をごちそうになり、野尻さんの管理している広大な森林に案内され山歩きをした。山の生活の様々な動植物と生活ぶりについてゆっくりお話を聞くことができた。野尻さん自慢の八十年もののヒノキのすばらしい森を案内してくれた。木々の間から光がこぼれ、森の静寂の中に木の息遣いが聞えるような感動の世界であった。また、野尻さんが仕掛けたニホンミツバチの巣、その巣に蓄えたすばらしいハチミツをごちそうになったあの味は忘れ難い。ゴールデンウィークとのこともあり、熊野本宮大社は参拝客で賑わっていた。また最近注目されている熊野古道(京の公家さんが熊野信仰で淀川を下り、大阪、白浜を経て、馬と徒歩で熊野に詣でた街道)を散策する姿がちらほら見られた。(ちな)みに、熊野詣のお旅所として熊野九十九王子があるが、その一つに現在の海南市に「藤白神社」がある。房総の祖先は明らかに紀伊であり、熊野神社もまた黒潮の流れで伝わった文化であることに疑いはないであろう。

 我々の祖先のふるさとを訪ね、森林を守る人とともに森の生活ができた旅から帰り、改めて百年の森を作ることの意義を再確認できた。

 このころ河津桜の提案者であった伊藤信一さんが入院されたと聞いた。病の進行が早く、六月二十三日、河津桜の花の咲くのを見ずに逝去された。ともにこの事業に取り組んだ工事委員全員が志半ばで(たお)れた信一さんを心から(いた)み、そろって野辺送りをした。

 七月工事委員の一人である木原農園さんの提案でツツジ七百本を植えようということになった。東庄町の植木畑にあるツツジ数万本から掘り起こし移植するのである。急遽、有志に呼びかけ、境内林内の山道沿いに植えることにした。山の散歩道を作ると同時に神社の敷地と他を区分けする意味も含めての植栽である。

 この夏は日照りが続き、宮司さんは日々ツツジの根元への水かけに追われた。最初のクスノキに始まり、ほとんど枯らすことなく根付いたのも宮司さんの朝晩の見回りと手入れによるものであった。

 同年十一月、光中学校移転のため、現在の植木等を一般に無料配布するとの教育委員会からの情報を得、社友会の動員でツツジ、ツバキ、モミジなど百本近くを移植した。小雨降る悪条件の中、黙々と作業は続けられた。このころ宮司さんの親戚、茂原市在住小川氏

よりログハウスの寄贈の申し入れあり、境内林の中の(たたず)まいとして据えられた。

 このあたりで西入口鳥居も建設され(彦兵衛建設工業)一応の神社としての体裁も整い、あとは落慶式をどう盛り上げるかが課題であった。

 明くる十四年三月、尾垂「光興業」伊藤市郎氏(前年神社前駐車場工事請負)より献木の提案あり。野栄町の伊橋(たまき)さんの植木畑にあるツバキ三百五十本を移植することとなった。主木であるクス、シイ、モミ、スギ、中間の背丈のツバキ、サザンカ、ヤマモモなど、低木のサカキ等が植えられ、当初の目的はほぼ達せられた。あとは木々の生長を待つばかりである。

 第四期の主たる工事は東屋の建設(古谷木材工業)、拝殿の内装(平石装束店)、各種案内板の設置(あおい塗装工芸)、甲子神社、子安神社の修繕(鵜ノ沢建設)であった。そして懸案の奉祝行事をどう盛り上げるかが議題となり、奉祝行事青年部を創設し、椎名正夫、向後善之、藤城吉雄、鵜ノ沢常吉、林輝氏らが実行委員の中心となり、各種イベントを企画することとなった。

 今回の寄付奉納者にどう感謝の気持ちを伝え、なお且つ奉祝行事に参加してもらえるかが焦点となった。

 地元の人たちによる郷土芸能大会、模擬店、記念品の配布は決まっていたが、大きな客寄せとしての心のこもったイベントが欲しかった。

 「餅つきをしてみんなにごちそうしよう」「そのために来春、もち米の苗で田植えをし、昔ながらの稲作りをして餅米を収穫しよう」との提案があり、早速準備にはいり田んぼの手配から進めた。

 平成十五年、いよいよ五ヵ年計画の総仕上げの年が来た。宮司さんのご長男の結婚式が一月にあり、幸先のよいスタートを切った。三月にかねて用意の餅の苗を神事としてお田植祭を執り行った。農薬を一切かけず、除草剤も一切使わない自然農法である。面積は四アールほど、目標三俵の収穫である。

 あと奉納者掲示板の設置、神社前駐車場の整備、記念品(絵馬、榊)の手配、芸能に参加してくれる方、交通整理にあたってくれる人への依頼、案内状、説明会と着々と準備は進められた。

 寄付奉納額は実に一千二百名六千万円を越えた。一人で多額の奉納に頼るよりもたとえ千円でもたくさんの方の志でこの事業を完成させようの合言葉は熊野神社を囲むたくさんの人にご支持をいただいた。

 あの荒れた森は確実に百年の森として今ゆっくりと成長を続けている。拝殿その他の建築物も境内林の風景に馴染み、時間とともに荘厳な雰囲気を作りつつある。

 十一月二日は、前夜の雨と打って変わって晴天に恵まれた。朝の花火を合図に、午前中に祭典、式典、表彰状の授与と滞りなく執り行われ、昼の花火を合図に、直会(なおらい)、芸能大会、もちつき大会と境内は招待客、参拝客で終日満ち溢れた。

 宮司、工事委員、総代各位、社友会、工事関係者その他大勢の方が一丸となり成し遂げた平成の一大事業はめでたくその幕を閉じた。

 この土地の産土(うぶすな)さま宮川熊野神社は貞観十八年(西暦八七六年)に鎮座まします我等の郷土の誇りであり、心のよすがでもある。栗山川の清き水の流れとともに、このやしろがとこしえにいや栄えに盛えんことを祈り、私なりの熊野神社改修工事との関わりを記し、これからも続く杜とのご縁を大切にしてゆきたいと思う。

 

 平成十五年十一月二十三日 新嘗祭の日 熊野神社に謹んで捧げる